梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

花巻温泉郷・鉛温泉「藤三旅館」

 岩手県花巻温泉郷・花巻南温泉峡・鉛温泉「藤三旅館」に投宿する。「長期滞在の方にはお得な湯治部もございます」という案内を見て、その湯治部に泊まった。一泊素泊まりで4000円、なるほど安い。部屋は和室6畳でバス・トイレ無し、エアコン無し、「ご案内」には「おやすみ時は恐れ入りますが、お布団はご自分で準備して(敷いて)いただきます。チェックアウトの際は布団はそのままでよろしいのでそのまま出室していただいて構いません」と書かれているような按配で、その素朴・質素な風情がなんとも親しみ深かった。建物全体に「昭和の景色」が色濃く残り、すぐ横を流れる豊沢川の瀬音も心地よい。折から九州地方を襲っている集中豪雨の影響もあってか、雨は間断なく降り続いているとはいえ、まだ川の水は濁っていない。もし晴れていたなら、河原でのキャンプ気分を居ながらにして味わえるといった佇まいであった。浴室のメインは「白猿の湯」。「天然の岩をくりぬいて作った湯舟の底からは、透きとおった源泉100%のお湯がこんこんと湧き出し、大きな小判型の湯舟をたっぷりと満たす白猿の湯は藤三旅館の自慢のお風呂です。深さは約125㎝、立って入る珍しい温泉です」(案内パンフレット)、その由来はといえば、伝承六百年、白猿伝説。「今を去ること、およそ六百年の昔、ここの温泉主である藤井家の遠祖が高倉山麓で木こりをしている際に、岩窟から出てきた一匹の白猿が、桂の木の根元から湧き出る泉で手足の傷を癒しているのをみた。これが温泉の湧出であることを知り、一族が天然風呂として用いるようになったとされる。以来『白猿の湯』(俗名桂の湯)と呼ばれるようになった」由、通常なら白猿と一族の「交流譚」が述べられてもおかしくないのに、そんな粉飾・虚飾とは一切無縁なところが、素晴らしい。「白猿の湯」は、文字通り「入湯」だけ、体を洗うことはできない。そのために「河鹿の湯」「桂の湯」「銀の湯」「白糸の湯」等々、多様な浴室が設けられているが、中でも「桂の湯」の露天風呂は逸品である。浴槽のすぐ隣を「川が流れている」、大浴槽の数段下には「一・二人用」の小浴槽まで準備されており、川の瀬音を聞きながら森林浴と温泉浴を同時に、「一・二人で」満喫できるわけだ。その心配りに深い感銘を受けた。湯治部の客室は80室、収容人数は150名とのこと、いずれ病苦の時期が訪れたとき、白猿ならぬ「白豚」として再来することを決め、帰路についた次第である。
(2010.7.14)