旅に病んで夢は枯野をかけめぐる・1
松尾芭蕉は晩年に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という名句を詠んだ。この句をどのように解釈すればよいか。見解は二つに分かれると思う。
その一。今は冬、私は旅の途中で病臥に伏している。しかし、いずれその病が癒えれば再び山野を駆け巡ることができるだろう。春になり健康を取り戻した自分の姿を、今、夢見ているのだ。
その二。今は冬、私の旅もそろそろ終わりに近づいたようだ。病に倒れ、もう一歩も進めない。しかし、夢の中では自由にかけめぐることができる。とはいえ、そこは荒涼とした枯野にすぎず、もはや命が芽吹く春の草原ではない。夢の舞台は過ぎ去った昔に限られてしまうのだ。
どちらを採るかは、読み手の自由だが、老いて病む人々の見る夢は、総じて「無味乾燥」ではあるまいか。
夏目漱石には「夢十夜」、黒澤明には「夢」という作品がある。いずれも小品のオムニバス形式という共通点がある。つまり、夢は短編(長続きしない)ということである。しかも、それら夢の数々は(おそらく)脚色されており、「無味乾燥」とはいえない。文字通り、作者の明日に賭けた「夢」が語られており、さすが芸術家(創作者)の夢は、私とは違う。漱石の夢を彩るのは「女」であり、黒澤の夢には、放射能に汚染された未来の世界もあった。
とまれ、「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という実感から「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という心境に、私の関心は転換したようである。
(2018.3.20)
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