梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「病む」ということ

 今日は亡母(没年・1945年)の73回忌である。読経を聞きながら、自分自身の「死」について考えた。
 「生老病死」とは、仏教語で「生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生における免れない四つの苦悩のこと」である。四苦八苦の「四苦」に相当する。この苦とは、「自分ではどうすることもできないこと」と解すべきであり、必ずしも「悩み」という意味が加わるとは限らない。「生まれること」は喜びではないか。もっとも、生まれた直後から「悩み」が始まるとすれば、その喜びは一瞬に消え去るかもしれない。それゆえに、仏道の命題は、その「悩み」をいかに克服するかという一点に集約されるのだろう。
 それはともかく、私自身は見境もなく生き続け、十分に老いた。「老い」の実感はすでに綴ったので、「病む」ことの実相について明らかにしたい。これまでに「大腸ポリープ切除」「無症候性脳梗塞」「前立腺肥大・前立腺炎」「急性腰痛症」「老人性乾皮症」「高血圧症」などを経験し、現在8種類の服薬を続けている。疾患の部位は、脳、内臓、泌尿器、血管、皮膚、腰など多岐にわたるが、中枢部を「病む」か、末梢部を「病む」かで、事情は一変する。いうまでもなく、中枢部の疾患は致命的であり「死ぬ」ことに直結するが、苦痛は少ない。まもなく「意識不明」に陥り、そのまま回復しないからである。脳や心臓は比較的順調に機能しているのに、末梢部に故障が生じると「痛み」は増大する。
 最近は、腰痛が拡大して、「歩行困難」になった。なぜか。まだ若いつもりで「歩き回った」からである。自業自得、私の身体が「しっぺ返し」をしたのである。「いい気になるな、おまえは見境もなく生き続け、十分に老いたのだ。もう昔のように自由にはさせないぞ。身の程をわきまえろ!」という声が聞こえる。でも、止まることはできない。一歩進むたびに激痛が走る。杖が欲しい。しかし、ソロソロと「ゆっくり」歩けば、痛みは減る。階段を避けエレベーターを使えば、昇降も可能だ。まだ当分は、外出・移動ができるかもしれない。不便・不自由に耐え、辛抱に徹する。「病む」とはそういうことなのである。(2018.3.19)