梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・34

第四章 日本語の文法構造・・その三、語と文と文章の関係
1 語と句と文との関係
【要約】
 ● おーい。起立。暖かい。
 などは、一語で話し手の一つの思想を表現したものとして《一語文》とよばれている。主語と述語をそなえているというのは、ある種の文の特徴であって、一つのまとまった思想が常にこのような形式をとって表現されるとは限らない。いつでも話し手はその扱う世界の一部分を構成している。対象から与えられた感覚・表象・概念ばかりでなく、それに伴う話し手の感情・判断・欲求・目的なども現実の思想の一部分を構成している。一つの統一を持つ現実の世界から、一つの統一を持つ現実の思想がうまれ、これが客体的表現と主体的表現の組み合わせによる一つの統一を持つ表現としてあらわれるところに言語の構造が考えられなければならない。普通に文と云われているものは、この二つの種類(注・客体的表現と主体的表現)の組み合わせだが、その一方だけを用いて他方を省略することも文法上認められていて、これが一語文のかたちをとる。 
 文はいくつかの基本的なタイプをかたちづくっている。「××がある」「××は□□である」「××は△い」「××は○○している」などのような文のタイプは、その基礎にそれぞれの現実の世界のタイプをかくしもっている。文のいろいろなタイプは、話し手の現実のとらえかたのいろいろなタイプである。それが一つの統一であることを形式的に示すために、日本語では《客体的表現の終止形あるいは主体的表現の特定の種類を使う約束になっている》。
● どうしても承知しないので・・・。
 この省略は、文法上許されていない。思想的には一つの統一を持っていながら、表現としては統一を欠いたもので「云いかけ」でしかなく、まとまった一つの文とはいえない。(a)山に登る。
(b)(山に登る)のは愉快だ。 
(c)(登山)は愉快だ。 
 (a)は文である。(b)の(山に登る)は文だろうか。(c)の(登山)と比較してみると、対象としては同じで、話し手のとらえかただけがちがっている。(b)も(c)も、全体が一つの文である。「山に登る」も「登山」も、一つの統一を持つ現実の世界の一部分についての表現である。ただ、(b)の場合には、その部分の表現が文と同じ形式ををとっているだけのちがいである。そこに動詞の終止形を使ってはあっても、それは対象の統一性によって裏付けされてはいない。この部分だけを見ると文と一致しているが、本質的には文の一部が発展して文と似た形式をとったもので、文ではない。これを「句」と呼ぶ。普通に句とよぶのは、短歌の上の句と下の句のように、それ自体文の形式をとっていない文の部分だが、文の部分としての性格を持っているかぎり、それがどのような形式をとっていようと問題ではない。
(d)奈良七重七堂伽藍八重桜
 これは芭蕉の句である。一個の文であり、語をならべたものではない。形式では語を次々とならべたように見えるが、その背後には統一された複雑な構造を持つ高度の思想がかくれている。普通の文とはちがって、あらゆる主体的表現を省略した、客体的表現だけを使っている特殊な文として理解すべきものである。
 命令文は、一見したところ、命令の思想を持った単純な表現のように思われるが、必ずしもそうではない。「起立!」と叫ぶとき、相手は起立していない。相手が起立していないということを明確に認識しているからこそ、それを注目しながら「起立!」と叫んだのである。従って、この場合の話し手の立場は、現実の起立していない状態の認識の立場と、未来を想像した起立している状態の認識の立場とが《二重化》しているわけである。立っていない人たちに対して「立つな!」と叫ぶのも命令文だが、これは起立を禁止するのであって、話し手は想像の立場で「立つ」と表現したあとで現実の立場から禁止を「な」と表現する。この場合現実に変化はない。しかし「起立!」の場合は、現実(相手のありかた)が変化して、現実が話し手の想像のありかたへと移って行くのである。話し手は《現実の自己否定を要求している》のである。
● 急ぎなさいますな! (命令)
  急ぎません! (返事)
 命令の「ます」は話し手の想像の立場の敬辞化である。相手はこの話し手の立場に立って追体験し、「急ぎなさいます」を「急ぎます」というかたちでうけとり、命令に応じてこれを自ら「ん」と否定して答えるのである。


【感想】
 ここでは、「語と句と文との関係」について述べられている。「単語が二つ以上つながって句を構成し、さらに句が二つ以上つながって文を構成する」というような考え方(山田孝雄らの「言語構成観」)は、わかりやすく、一見、もっともだと思われがちだが、著者はその考え方を否定している。その立場は「国語学原論」の著者・時枝誠記と大きく変わることはないと、私は思った。 要するに、文とは「話し手の一つの思想を表現したもの」であり、たとえ一語であっても、それが話し手の思想を表現したものであれば文である、ということである。一方、
「どうしても承知しないので・・・」という表現は、たとえその場の聞き手には理解できたとしても、思想が完結していないので(表現としては統一を欠いているので)文とはいえない。
 著者は、
(a)山に登る。
(b)(山に登る)のは愉快だ。
 という二つの文を例示して、(a)は文だが、(b)の「山に登る」は文ではなく句であると述べている。これは時枝の「国語学原論」(第三章 文法論 文の成立条件)の一部を踏襲し、あらためて著者なりの説明を加えたもので、たいそう興味深かった。  
 いずれにせよ、著者は時枝誠記と軌を一にして、表現を原子論的に単体の機械的な集合として扱う、山田孝雄らの「言語構成観」の誤りを指摘していることはたしかなようである。
(2018.2.23)