梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・31

【要約】
 彫刻家ロダンは、彫刻や絵画が運動を表現する場合について、次のように語っている。〈「動勢とは一つの姿態から他の姿態への推移である」この単純な言葉が、神秘の鍵なのです。・・彼は一つのポーズから他のポーズへの推移を形に写します。最初のものが如何に知らず識らずのうちに第二のものに移って行くかを描き出すのです。その作品の中には、かつての姿の一部分がなおそれと認められ、そしていまやなろうとしている姿が一部見出されるのです。それこそは芸術が表現する動作の全秘密なのです。《彫刻家は。云わば観る者が一つの人物を通じて行為の発展をたどるように強いるのです》。
 ジェリコオは「エプソムの競馬」の中で、全力をあげて走っている馬をその脚を同時に前後に伸ばしているいるように描きました。(周囲からは実像とは異なると非難されたが)私はジェリコオこそ写真を圧倒していると信じています。なぜなら、彼の馬たちはあたかも走っているように見えるからです。これは観る者がこの絵を後ろから前へと眺めてゆきながら、同時にまず後脚が全般的飛躍を生ずる努力を完了し、次いでその体が伸び、さらに前脚が遠く前方の地面を求めるのをながめる、そこから生じているのです。《総体としては、その同存性のゆえに誤っています。だがそれは、各部分が連続的にながめられるときには真実なのです》。さらにまた、画家及び彫刻家が同一の像の中にさまざまな推移を綜合するとき、彼らは決して理屈によっても、または作為によって行うのではないことにご注意を促します。《彼らは実に素朴に、その感ずるところを表現するのです》。」(ポール・グゼル集録「ロダンの言葉」)
 彫刻あるいは絵画では、時間的な推移が、固定した表現形象の中に「同存」していて、観る者はその「発展をたどるように強いられる」こと、表現のうしろにある時間的な推移に対応して、観る者も時間的な推移においてうけとることをロダンは指摘している。 
 同じことが、言語でもいえる。作者は、文章を上から下へと、時間的な推移において読むように、読む者に強いる。下から上へ読んではいけないのである。
● 怪しい男は    裏へまわり      木戸をあけ    庭を横切る
          ↑                     ↑                     ↑                  ↑
  (読み手の動き)      (A)                  (B)               (C)
 ここでは「裏へまわり」「木戸をあけ」「庭を横切る」という三つのありかたが表現されている。怪しい男が三人いるのではなく、一人の男のありかたの変化を次々ととらえている。「庭を横切る」という現在形の表現は一応問わないとして、これに対して上の二つのありかたは過去である。しかも「庭を横切る」ときはすでに消滅しているはずのありかたである。この三つのあり方を同存させているのは、全体として考えれば不合理だが、読む者が各部分を連続的にながめていれば何の不合理も感じない。読む者は、観念的に自分を二重化して、作者の世界に入り、そこで「怪しい男」を対象としてとらえ、その男と《一緒に動いていく》。「怪しい男」について(A)をながめ、(B)をながめ、(C)をながめるというように、観念的に行動を共にするのである。(A)の場合の読み手と対象との関係は現在である。(B)でも(C)でも同じでことである。これらを独立させて、現在形で表現すると、
● 怪しい男は裏へまわる。木戸をあけて中へしのびこむ。庭を横切って離れに近づく。 いわゆる「歴史的現在」の文章になる。
 空間的な推移を、抽象的にとりあげるときは図(クリちゃんがコオロギをつかまえようと近づいている。コオロギはピョンピョンと跳ねて逃げている。その軌跡が曲線で描かれている)のように、線によって表現するのが例である。観る者はこの線をたどって、位置の変化を理解する。同じように言語でも、
● コースは新宿ー横浜ー江の島ー小田原です。時間は午前九時ー午後五時。
 というかたちで、線を使って表現している。
 この文章を読む者は観念的に、それぞれの土地へと移動していき、また時間の経過を体験する。
 対象のありかたが、子どものときから死ぬときまでにわたっていようとも、話し手が観念的に扱うときは、その全期間を電光のように瞬間的に経過して、端的に表現する。
● 彼は(一生忘れなかった)。
 同じありかたが時間をおいてくりかえされるときも、飛び石をつたうように観念的に次々と、いわば多くの現在においてとらえる。
● 彼は(毎朝散歩する)。
 無限の過去から無限の未来へと、永遠に存在する対象を扱うとき、それらをとらえる話し手自身も観念的にやはり永遠の存在として対処しないわけにはいかない。
● 宇宙は(永遠に存在する)。
 この永遠な観念的な自分と、一定の寿命しかない現実の自分との関係を、永遠なものの方が根源的で、一定の寿命しかないものの方が派生的だと解釈すると観念論哲学がでてくる。
 言語で表現する現在は、現実の現在ばかりでなく、観念的に設定した過去における現在や未来における現在、あるいは運動し変化する対象と行動を共にするかたちでの現在などいろいろなありかたをとりあげている。時制と時は無関係ではないし、非論理的な表現でもない。話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければならない。


【感想】
 ここで著者は、彫刻や絵画において「運動している対象」についてどのように表現するかについてロダンの言葉を紹介している。ロダンはジェリコオ「エプソムの競馬」をとりあげて、「馬が走っている」「写真を圧倒している」と評価した。後脚が地面を蹴り上げ、前脚も大きく前方に伸びている。実像としては不自然(不合理)だが、そう描くことによって馬の運動が表現されるということである。ロダンは「動勢とは一つの姿態から他の姿態への推移である」と述べ、一つのポーズと、次のポーズを同じ画面の中に描くことで、観る者は「動きを感じとれる」と説いている。なるほど、走っている馬を写真で撮っても、一場面を切り取るだけで(ストップモーション)、動きは表現できない。「総体としては、その同存性のゆえに誤っています。だがそれは、各部分が連続的にながめられるときには真実なのです》というロダンの言葉はよくわかった。
 以上が、彫刻や絵画による運動の表現の一つだが、著者は言語の表現においても「同じことがいえる」と述べている。「怪しい男は 裏へまわり 木戸をあけ 庭を横切る」という一つの文の中には、怪しい男の三つのありかた(行動)が同時に存在しており、読者は文をたどりながら、その男の行動についていく(観念的に行動を共にする)ことになる。 空間的な移動や時刻の進展などは、「新宿ー横浜ー江ノ島ー小田原」「午前九時ー午後五時」のように線で表すということも、よくわかった。
 著者はこの節(時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題)の結論として、〈言語で表現する現在は、現実の現在ばかりでなく、観念的に設定した過去における現在や未来における現在、あるいは運動し変化する対象と行動を共にするかたちでの現在などいろいろなありかたをとりあげている。時制と時は無関係ではないし、非論理的な表現でもない。話し手はその感ずるところを素朴に表現しているにもかかわらず、きわめて合理的であり論理的なものだということを理解しなければならない。〉と述べている。要するに、言語で表現する現在には、①現実の現在、②(観念的な)過去の現在、③(観念的な)未来の現在、④運動し変化する対象と(観念的に)行動を共にする現在などがあるということもよくわかった。(2018.2.1