梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・27

f 終助詞について
【要約】
 文の終わり、助動詞あるいはそれに相当する部分の後に使われる語である。その特徴は、感動、疑問、欲求などを純粋なかたちで表現することで、個人的な意識の自然なあらわればかりでなく、時には聞き手に対して強い欲求を示すような場合がある。
● 今日は元日(か)。 立派だ(なあ)。 うまい(ねえ)。 きれいだ(こと)。 おれの腕はこんなもの(さ)。 僕も見た(ぜ)。 知りません(わ)。 行く(とも)。 行く(ものか)。 お出かけになります(の)? いらっしゃる(かしら)? 誰だ(い)?足を出す(な)。 早く見(ろ)。 食べなさい(よ)。 試験に落ちる(ぞ)。 
 往々にして、 
● あの(ね)、わたし(ね)、きのうの朝(ね)、お父さんと(ね)、・・・
 のような使いかたをする。
 終助詞は主体的表現なので、強調するあまりその意識が話の各所にあらわれたものである。かたちの上では文の終わりに使われてはいないが、意識の上では個々の部分が相対的に独立させられ、その部分の表現に対してやはり終わりに用いられているのである。


【感想】
 著者は、終助詞の特徴は「感動、疑問、欲求などを純粋なかたちで表現する」(主体的表現)であると述べている。この《純粋なかたち》とは何だろうか。私は、心情が込められた「声」だと思う。1歳未満の乳児は「ことば」を話し始める以前に、さかんに声を出している。その源は不快を訴える「泣き声」(要求)だが、やがて欲求が満たされたときの快感を「笑い声」や「喃語」で表現するようにもなる。そこには、感動、疑問、欲求などが《純粋なかたち》で表現されているといえるだろう。
 したがって、終助詞は、言語の「原点」であり、言語獲得の上で最も重要な品詞ではないかと私は思った。認識の構造という点から見れば、単純・素朴なため「文法的」には軽視されがちだが、乳児の「声」がどのようにして「終助詞」に発展していくのかは、極めて興味深い問題である。(2018.2.13)