梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・26

e 接続助詞について
 助詞がつながりの意識の表現であることから、対象のつながりを表現する助詞が二つの文をつなぐかたちをとって使われるようにもなる。これが接続助詞である。「から」は出発点・起点の意識を表現する格助詞だが、これが二つの事件の原因結果について使われるようになり、
● それだ(から)私が心配したのだ。
● 小さい(から)とりかえてもらいたい。
 というかたちをとって発展していき、
● そこにお菓子がある(から)、三時になったらお食べなさい。
 のようにハッキリしたかたちの「接続助詞」になる。「それだ」「小さい」「・・がある」という一つの文と、ほかの文とをつなぐかたちで「から」が使われるところに接続助詞の特徴がある。
 文の接続は見たところ簡単だが、認識構造は複雑で、上の文の表現の立場と下の文の表現の立場とはちがっている。現実の異なった対象に対する話し手の立場のちがいもあり、相手の言葉を聞く立場と現実の立場の差別からくる話し手の立場のちがいもある。この認識のつながっている部分の表現が接続助詞あるいは接続詞として表面化するのである。
(a) 《「雨が止む」(■)(と)鳥が鳴き出す》(■)
(b) 《「それ」(で)(は)かえり》(ます)
(c) 《(■)(で)(は)かえる》(■)
 接続助詞は上の文につき、接続詞は下の文につく、と一応かたちのうえで区別できるが、これは(b)(c)のように相手の言葉を聞いてそれに接続させて自分の表現をするところから、文のはじめに接続意識からうまれた特殊な形式の語が使われ、これが接続詞になったという理由を考えてみる必要がある。
● 雨が止むと、鳥が鳴き出す。(接続助詞)
● 雨が止む。(する)と鳥が鳴き出す。(接続詞)
 この二つは認識構造にちがいがあり、後者の場合は一応認識が中断してあとから接続意識がうまれたものといえるだろう。
 接続助詞には、「が」「ば」「と」「て」「し」「ながら」「から」「けれど」「ても」「のに」「ので」「つつ」など、独自の形式をもつもの、ほかの助詞から転用されたもの、抽象名詞から移行したものなど、いろいろある。前の文の助動詞による主体的表現の部分と密接なつながりを持っているために、助動詞とハッキリした区別を立てて表現されない場合があることに注意しなければならない。
● 大切なものだ(が)、君にやる。(別になっている)
● お茶をのん(でも)、ニュースを見(ても)。(融合している)


【感想】
 一般には、「接続助詞」とは、〈用言や用言に準ずるものに付いて、下にくる用言や用言に準ずるものに続け、前後の文(または文節)の意味上の関係を示す助詞〉と説明され、以下のような種類がある。(以下、サイト『国語の文法』より引用)
《ば》
・急げ(ば)、間に合うだろう。《仮定の順接》
・春に なれ(ば)、青葉が 芽吹ぶく。《確定の順接(一般条件)》
・歌も 歌え(ば)、ダンスも 踊る。《並立の関係》
《と》
・早く 行かない(と)、遅刻する。《仮定の順接》
・トンネルを 抜ける(と)、海が 見えた。《確定の順接》
・あたたかく なる(と)、雪が とける。《一般条件》
・なんと 言われよう(と)、私は 平気です。《仮定の逆接》
・実を 言う(と)、私も 迷って いる。《単純な接続》
《ても(でも)》
・言っ(ても)、聞く 耳を もたない。《仮定の逆接》
・何度 読ん(でも)、よく わからない。《確定の逆接》
《けれど(けれども)》
・雨が 降っている (けれど・も)、出発する。《確定の逆接》
・買い物に 行く(けれど・も)、ほしい ものは ありますか。《単純な接続》
・仕事も 大事だ(けれど・も)、家族も 大事だ。(対比)《並立の関係》
《が》
・この 靴は すてきだ(が)、私には 似合わない。《確定の逆接》
・僕も 食べて みた(が)、おいしかった。《単純な接続》
・野球も よい(が)、サッカーも よい。(対比)《並立の関係》
《のに》
・熱が ある(のに)、出かける。《確定の逆接》
《ので》
・歯が 痛かった(ので)、歯医者に 行くのを 休んだ。(原因・理由)《確定の順接》
《から》
・あぶない(から)、やめなさい。(原因・理由)《確定の順接》
《し》
・酒を 飲まない(し)、タバコも 吸わない。《並立の関係》
《て(で)》
・風邪をひい(て)、寝こんだ。《確定の順接》
・覚えて い(て)、忘れた ふりを する。《確定の逆接》
・さなぎが 羽化うかし(て)、成虫に なる。(先行)《単純な接続》
・肉まんは、白く(て) やわらかい。《並立の関係》
・この 本を 読ん(で) ほしい。《補助の関係》
《ながら》
・若い(ながら)、しっかりして いる。《確定の逆接》
・テレビを 見(ながら) ご飯を 食べる。《動作の並行》
《つつ》
・体に 悪いと 知り(つつ)、飲んで しまう。《確定の逆接》
・大声で 叫び(つつ) こちらに 向かって くる。《動作の並行》
《たり(だり)》
・押し(たり) 引い(たり)する。(列挙)《並立の関係》
・本を 読ん(だり) して すごす。《例を挙げる》
《ところで》
・泣いた(ところで)、しかたが ない。 《仮定の逆接》
《ものの》
・卒業は した(ものの)、就職先が ない。《確定の逆接》


 著者はいろいろある「接続助詞」の中から、特に「から」「と」「で」「が」「でも」「ても」を採りあげて説明している。その意図はどこにあるのだろうか。
 初めに「助詞がつながりの意識の表現であることから、対象のつながりを表現する助詞が二つの文をつなぐかたちをとって使われるようにもなる。これが接続助詞である」と述べている。要するに、接続助詞は二つの文をつなぐ働きをするということはよくわかった。次に、「から」は、起点・出発点を表す格助詞の「から」が、原因結果を表すようになり接続助詞に移行したものであるということもわかった。
 しかし、「雨が止むと、鳥が鳴きだす」という文例を挙げながら、「認識構造は複雑で、上の文の表現の立場と下の文の表現の立場とはちがっている。現実の異なった対象に対する話し手の立場のちがいもあり、相手の言葉を聞く立場と現実の立場の差別からくる話し手の立場のちがいもある。この認識のつながっている部分の表現が接続助詞あるいは接続詞として表面化するのである」という説明は難解で、私には理解不能であった。
 著者はまた、接続助詞との違い、助動詞との融合にも触れていたが、その意図を十分に理解することもできなかった。
 さらに、一般では、「なんと 言われよう(と)、私は 平気です。《仮定の逆接》」 「実を 言う(と)、私も 迷って いる。《単純な接続》」の「と」は接続助詞とされているが、著者は「先生がいけない(と)云った」の「と」は格助詞に分類している。両者の違いはどこで見つけるのだろうか、という疑問も残った。
(2018.2.12)