梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・25

d 係助詞について
【要約】
 直接対象から与えられた認識とは別に、話し手の持っている意識がかたちの上で打ち出してくる助詞を、係助詞と呼ぶ。昔から、係り結びといわれ《「ぞ・る」「こそ・れ」「思ひきや・とは」「は・り」「やら・む」これぞ五つの結びなりける》という歌でこれを記憶してきたが、口語では文のおわりに特種の形式が使われない場合もあるので、形式的な解釈を下さないように注意が必要である。
○「は」
● 彼(は)さすがにりっぱな男だ。
● それ(は)困る。
● ここに(は)置いてないぞ。
○「こそ」
● 彼(こそ)悪人中の悪人だ。
● よう(こそ)おいでくださった。
○「さえ」
● 君(さえ)わかってくれればいい。
● 来ること(さえ)知らなかった。
○「でも」
● おそば(でも)結構さ。
● 今晩に(でも)行くよ。
○「も」
● 私(も)知っている。
● 取りに(も)来ない。
○「ばかり」:副助詞の「ばかり」は単に限られるという意識だが、これはそれ以外のありかたについてハッキリした意識をもってそれと結びつけての表現である。
● 彼(ばかり)飲んでいる。
● 遊ぶ(ばかり)が能じゃなかろう。
○「まで」:副助詞の「まで」は単に発展の範囲の意識だが、これは予想した範囲をこえたものだという意識
● 君(まで)私を裏切るのか。
● そんなに(まで)云うなら止めよう。
○「しか」:文末がかならず否定になる。
● うそと(しか)思えない。
● 彼(しか)いない。
● 子どもで(しか)ない。
 実際には「うそと思う」「彼がいる」「子どもである」という状態であり、対象そのものは否定する必要がない。そのときに「本当と思う」「彼以外にいる」「大人である」という《先入観》があり、これが対象に接することによって否定される結果となったのである。「しか」は先入観とのつながりを、「ない」はこの先入観の否定を表現しているので、先入観と現実の認識とのからみあいがこのような表現形式になってあらわれているところに注目すべきである。


【感想】
 「係助詞」は文語文法における助詞の一つであり、いわゆる「係り結びの法則」を形成するものと理解してきたが、著者は口語文法においても「係助詞」を助詞の一つとして挙げている点が、たいそうユニークでおもしろかった。 
 口語文法における「係助詞」とは、〈直接対象から与えられた認識とは別に、話し手の持っている意識がかたちの上で打ち出してくる助詞〉のことであり、通常なら、「格助詞」「副助詞」に分類されるものを、著者は「係助詞」としている。  
 「係り結びの法則」では、文末(結び)を已然形にするという決まりがあるが、口語文法の場合は、〈文のおわりに特種の形式が使われない場合もあるので、形式的な解釈を下さないように注意が必要である〉ということである。つまり、文の「字面」を表面的(形式的)に追うだけでは「係助詞」の存在に気づくことはできないということであろう。話し手(書き手)の持っている意識を理解することが、聞き手、読み手にとって何よりも大切であることがよくわかった。また、係助詞「しか」の文末は必ず「否定」になる、それは、話し手の「先入観」を否定した表現だからだという説明もユニークでおもしろく、そこには「先入観と現実の認識とのからみあい」がかくされていることを、なるほどと納得した次第である。(2018.2.11)