梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・19

b 新しい分類の中に止揚すること
【要約】
 「静かだ」「綺麗だ」を一語と見て形容動詞とよぶのはまちがいである。これは二語と見るべきである。静止し固定した変わらない属性において対象をとらえるときの語は、形容詞だけではない。漢語そのほかたくさんある。そのたくさんのうちで、特別に「く」「い」「けれ」と活用する語だけが形容詞とよばれているにすぎない。活用するということは、この種の語のもつ特殊性として考えるべきものである。これまでの学者には、見かけにだまされて、この特殊性を普遍化し、活用できないものまでも活用と誤解して説明する傾向があった。
 形容動詞といわれるものの生い立ちを理解すれば、先にあげた奇妙な例についての疑問も消失する。これらはあたらしく漢語について工夫した表現が、漢語だけにとどまらず、これまで形容詞として使われていた語にまで影響を及ぼし、形容詞の表現方法に浸透していったために起こったことである。「暖か」のような語は、形容詞としての活用を持っているが、漢語的に使われることも行われる。形容詞は「ない」のようなもっとも抽象的な表現から、「あまい」「ぬるい」「厚い」「黒い」「丸い」など味覚、触覚、視覚などで直接つかまえた単純な属性の表現として、単独では「く」「い」「けれ」の活用を持っている。けれどもこれをほかの語と組み合わせて「処置なし」「大あま」「なまぬる」「ぶあつ」「真っ黒」「まん丸」のように、こみいった属性の表現に発展して、漢語的になると、形容詞的な表現方法をやめて漢語について用いられる表現方法をとったり、二つの方法を合わせて用いたりするように変わっていくのである。
 日本文法で形容詞とよぶものは、「く」「い」「けれ」と活用する語だけに限られている。これはかたちの上での分類である。
 わたしとしては、形容詞と形容動詞の語幹といわれているものを一まとめにし、静止し固定し変わらない属性をとらえるという意味で、これを動詞に対して「静詞」とでも名づけたらどうかと考えている。
● 静詞 活用のあるもの(形容詞)
     活用のないもの
 一般に、見かけの分類から接尾語として一括されているものの中にも、
● 魚+屋(名詞)  山手+線(名詞)
 のような単純な複合語ばかりでなく
● つめた+さ 偉大+さ 苦し+み 暖か+み(静詞の名詞化) 
大人+しい 馬鹿+らしい 人間+的 学者+然(名詞の静詞化)
 のように移行をもつものがあることも、この分類からハッキリしてくるだろう。
 いわゆる形容動詞の問題は、文法的に一品詞を立てるかどうかの問題だけでなく、漢語としての静詞をどうするか、漢語の名詞の静詞化をどうするかの問題につながっている。漢語は単なる語彙だけの問題ではなく、文法構造をも規定して、日本語の表現にとって骨がらみの状態になっているという事実を正しく理解することが大切である。名詞の静詞化のための「的」の乱用が時おり問題になるが、これは個人の乱用の問題でなく、日本語の性格についての反省を要求する問題なのである。


【感想】
 ここで著者は、形容動詞〈「静かだ」「綺麗だ」を一語と見て形容動詞とよぶのはまちがいである。これは二語と見るべきである〉と断定し、形容詞と形容動詞の語幹を一括して「静詞」と呼んだらどうかと提唱している。なるほど、動き、変化する属性をとらえて表す語を「動詞」というなら、静止し、固定し、変わらない属性をとらえて表す語を「静詞」と呼ぶことは自然である。「活用」という見かけにとらわれることなく、語の本質(認識構造)に焦点を当てれば、その分類の方が混乱を招かないということがよくわかった。 著者はさらに「複合語」に言及し、形容詞が名詞化する例、名詞が形容詞化する例を列挙している。そして〈名詞の静詞化のための「的」の乱用が時おり問題になるが、これは個人の乱用の問題でなく、日本語の性格についての反省を要求する問題なのである〉と結んでいるが、現代でも「自分的には」「ワタシ的には」「オレ的には」などという表現が乱用されている。それはそのような表現をする個人の問題ではなく、日本語本来の性格に起因しているという指摘がたいそうおもしろかった。