梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・15

b 形式動詞あるいは抽象動詞
【要約】
 対象となっている属性について具体的に知らないとき、簡単にしか表現できなかったり簡単な表現で足りる場合には、形式動詞あるいは抽象動詞とよばれる種類の動詞が使われる。
● どこに(ある)のか。どう(する)つもりか。どうして(いる)か。どう(なる)だろう。こう(やる)のがいい。そうして(もらう)か。そう(なさ)い。よろしくいねがい(いたし)ます。苗が植えて(ある)。あけてびっくり(する)。花が咲いて(いる)。手があたたかく(なる)。彼をなぐって(やる)。意見を聞き(なさ)い。 
 代名詞の下に使ったり、ほかの具体的な表現を添えたりすることが特徴である。
 これらの抽象的な動詞表現の中で、昔から問題になっていたのは「ある」「あり」という語である。 
● 本が(ある)。 駿河(なる)富士。 《存在》
● 本で(ある)。 いか(なる)人か。 《判断》
 この二つを全く別の語としてハッキリ区別しなければならないが、区別なしに、あるいは一つの語の特殊な使い方であるかのように理解したところに混乱があった。山田孝雄氏は「あり」について、
 「その意義は属性と名づくべきものを全く有せずして、ただ存在を示すもののみなるが、用い方によりては存在の意もなくなりて、ただ陳述の力のみをあらわすに止まる場合もあるなり」(山田孝雄「日本文法学概論」)
 といい、動詞から除いて特別の語として独立させた。これは山田氏が見かけにとらわれて混乱しただけでなく、観念論の影響を受けたためである。唯物論の立場では時間・空間を現実の世界の事物のありかただと考える。事物と切り離すことのできない客観的な存在だと考える。観念論は時間・空間を主観的なものと主張し、これを事物からきりはなして直観の形式で事物にあたえられるものと主張する。唯物論の対場からは、「ある」は時間的空間的な属性なのだが、観念論では実体そのものの属性ではない。それで山田氏は「属性と名づくべきものを全く有せず」と見たのだった。
 わたしたちは世界の個々の部分をきりとって認識し、それを頭の中でまた一つのものに組み合わせている。世界自体がもともとつながっていたのだから、それをきりとったものは世界のつながりかたに従って組み合わせていかなければならない。認識の構造は対象の構造に正しく対応するものでなければならない。この組み合わせは頭のはたらきには違いないが、純粋な創造でもなければ純粋な統一作用でもない。観念論者は、この組み合わせが現実の世界の組み合わせに忠実でなく、ある限界の中では「自由」な組み合わせが行われること(天使やロクロ首のおばけを創造する事実)をとりあげて、度外れに拡大する。組み合わせはすべて純粋の精神作用であるかのように、人間には生まれつきの組み合わせの「力」があるかのように主張する。山田氏はこのような認識論に基づいて「本がある」を解釈した。「本」と「ある」とを組み合わせる精神の統一作用を「陳述の力」と考え、それが「ある」にふくまれているといい、また「本である」の場合はその「力」だけがあらわされていると主張したのである。
 「本がある」の「ある」が動詞なら、「本がない」の「ない」も動詞だろうと思う人があるかと思うが、この「ない」は形容詞である。なぜこれが形容詞のかたちをとるのか。この点をつっこんでいくと、動詞と形容詞との本質的なちがい、その相互転換がだんだんあきらかになる。


【感想】
 ここでは、著者の言語論を支えている「唯物論」に一端が明確に述べられている。 
「わたしたちは世界の個々の部分をきりとって認識し、それを頭の中でまた一つのものに組み合わせている。世界自体がもともとつながっていたのだから、それをきりとったものは世界のつながりかたに従って組み合わせていかなければならない」ということである。 「本がある」の「ある」は、事物の属性である「存在」を表す動詞であることはよくわかったが、「本である」の「ある」についてはどのように考えればよいのだろうか。著者は「この二つを全く別の語としてハッキリ区別しなければならない」と述べており、山田孝雄は観念論的認識論に影響されて《「本」と「ある」とを組み合わせる精神の統一作用を「陳述の力」と考え、それが「ある」にふくまれているといい、また「本である」の場合はその「力」だけがあらわされていると主張したのである》と批判しているが、著者自身の考え方はどうなのか、ここまでのところでは判然としなかった。
 時枝誠記は「本がある」の「ある」は存在を表す《詞》であり、「本である」の「ある」は主体の肯定判断を表す《辞》であると、「この二つを全く別の語としてハッキリ区別」していると思われるが、著者の唯物論の立場から、時枝の《辞》についてどのように評価するのだろうか。おそらく「第三章 日本語の文法構造・・その二、主体的表現にはどんな語が使われているか」まで読み進めれば明らかになるだろう。期待を込めて読み進むことにする。(2018.1.22)