梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・14

3 動詞と形容詞、その交互関係
a 活用ということについて
【要約】
 動詞といわれる種類の語は、使い方によって語尾のはたちが変化する。これを活用と呼ぶ。
●「書く」(基本の形) 「書」(語幹)・「書か」「書こ」(未然形)・「書き」(連用形)・「書く」(終止形)・「書く」(連体形)・「書け」(仮定形)・「書け」(命令形)
 というような変化がある。
 日本語の動詞の活用は、外国語の動詞に見られる語尾変化とまったくちがった性質のものである。外国語の動詞の語尾変化は、日本語の複合語や動詞と助動詞とを組み合わせたものに相当するので、それ自体対象のとらえかたのちがいを表現している。日本語の動詞の語尾変化は、ほかの語とのつながりの関係で起こるかたちの上の変化で、それ自体何ら特別な意味を持つものではない。終止形とか仮定形とかいうのは、文全体としての性格からくるもので、「書く」を「書け」にすればそこに仮定の意味がふくまれるわけではない。それにもかかわらず、そのような見かけを示す場合があることが誤解の原因になる。(「書け」という命令形)
 「書く」は現にその行動が存在する場合をとらえて表現したのだが、「書け」と命令する場合はまだその行動が存在していない。この対象のありかたのちがいが「く」と「け」のちがいとしてあらわれていると考えれば、活用が特別の意味を持つという結論になるだろう。この問題は、命令のときの認識構造をあきらかにすることによって、正しい解決が得られる。文を論じるところで扱うことにする。
 活用をローマ字つづりにすると、
● kak (anai)(i)(u)(e)(o)
 のかたちになる。しかし、これは音を客観的に分解した場合のことで、話し手はこのかたちで語尾が変化していることを認識しているわけではない。外国語のように、語尾変化が対象のとらえかたのちがいを表現する場合なら。このかたちの分解も意味があるが、日本語の活用をこうして分解してみたところで、表現としての基本的な構造を示すことにはならない。「これはニッポン語の動詞のきほん的なかたちだ」(タカクラ・テル「ニッポン語」)という主張もあるが、まとはずれのように思う。表現構造は「書か」「ない」でkak-anaiではないから、カナによる活用表にくらべれば退歩であるといえる。   
 動詞の活用が、それにつながる語との関係で起こるとして、次の問題は、どんな語につながるかということである。
a 《「書か」(■)》(ぬ)
b 《「書き」(ませ)》(ん)
c 《書き》(ます)
d 《書き》(ます)(わ)
e 《書く》(■)
f 《書く》(■)(わ)
g 《書く》(だ)
h 《書く》(ある)(よ)
 未然形といわれるものは、(書か)ぬ、(書か)ない、のように助動詞のうちの否定(打消し)の表現がつながるときのかたちである。(書き)ます、尊敬の助動詞のときは連用形になる。(書け)ば、仮定形の場合は接続助詞がつく。(書け)よ、命令形の場合も命令助詞をつけることがある。これらは見かけのつながりかたである。見たところは直接つながっているが、時枝誠記氏の風呂敷型統一形式を使って、認識構造でも直接につながっているかを調べてみる。
 aとbは風呂敷型が二重の入子になっている。これは対象となる世界が二重になっていて、書くという対象の存在する非現実の世界と、そういう対象の存在しない現実の世界と、二つの世界にまたがった認識であり表現であるからである。「ます」は敬意の表現で、助動詞「ある」「だ」の変化したものだが、bの場合はこの聞き手への敬意の表現が非現実の世界の中で行われているところに注意するべきである。現在では、これが現実の世界での表現に移行して、(書かん)です、というかたちをとることも行われている。またこれらの認識構造から考えて、g、hに示した、おいらも(書く)だ、わたし(書く)あるよ、のような表現(実際には方言や外国人が日本語を使う場合にあらわれる動詞の終止形に肯定判断を示す助動詞を加えるやりかた)が、決して不合理ではないことがわかる。


【感想】
 ここでは、動詞の活用について述べられている。動詞の活用は「未然形」「連体形」「終止形」「仮定形」「命令形」などと説明され、動詞の語尾変化自体に「未然」「終止」「仮定」「命令」という意味が含まれていると考えられがちだが、それは後に続く語によってそのような意味に変化するのであって、活用(語尾変化)自体は「何ら特別の意味を持つものではない」という説明が、たいそうおもしろかった。なるほど「書か」「書く」「書け」だけでは、《書く》という行為のありかたを表現することはできないということがわかったような気がする。「未然」「終止」「仮定」「命令」といった語の内容に関する名称に比べて「連体」だけは、ただ「体言に連なる」という形式的な名称が使われている。これまで、そのことに何の疑問も感じてこなかったことが不思議だと思った。
 著者は、命令形の「書け」について、〈「書く」は現にその行動が存在する場合をとらえて表現したのだが、「書け」と命令する場合はまだその行動が存在していない。この対象のありかたのちがいが「く」と「け」のちがいとしてあらわれていると考えれば、活用が特別の意味を持つという結論になるだろう。この問題は、命令のときの認識構造をあきらかにすることによって、正しい解決が得られる。文を論じるところで扱うことにする。〉と述べているが、「活用が特別の意味を持つという結論」が正しいのか否か、まだ不明である。「文を論じるところで扱うことにする」ということなので、それまで解決は後回しになる。また、「書かぬ」「書きません」については、「これは対象となる世界が二重になっていて、書くという対象の存在する非現実の世界と、そういう対象の存在しない現実の世界と、二つの世界にまたがった認識であり表現であるからである。「ます」は敬意の表現で、助動詞「ある」「だ」の変化したものだが、bの場合はこの聞き手への敬意の表現が非現実の世界の中で行われているところに注意するべきである」と述べているが、《書くという対象の存在する非現実の世界と、そういう対象の存在しない現実の世界と、二つの世界にまたがった認識であり表現である》という部分がよくわからなかった。要するに、「書かぬ」「書きません」は、「書かない」のだから「書く」という対象は非現実であり、「書かない」という対象が現実の世界だということであろうか。特に、「書きません」の場合、《聞き手への敬意の表現が非現実の世界で行われている》ということはどういうことだろうか。話し手が聞き手に敬意を表しているのは《現実の世界で行われている》のではないだろうかという疑問が残った。(2018.1.21)