梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・13

b ほかの語の一人称への転用
【要約】
 落語「そこつ長屋」の熊さんは、八さんから「オイ、しっかりしろ。お前はいま浅草で行き倒れになっていたぞ」と言われ、あわてて現場にかけつけた。その死骸を見て、「ああ、たしかにおれだ。熊さんは泣きながら死骸を抱き上げ「この死骸はおれに違いないが、抱いているおれはいったい誰だろう」と言った。熊さんは、自分が死骸になっているところを想像した経験があったにちがいない。彼はそそっかしい人間だったので、この想像をそのまま現実に持ち込んでしまった。最後の疑問は、想像と現実を混同しないで、想像の中で提出すれば、認識論的にきわめて重要な意義をもってくるのである。
● (わたしの)死骸の前で妻は泣くだろう。
 一人称を研究する学者が「この死骸はたしかに私には違いないが、それを見ている私はいったい誰だろう」と考えたなら、一人称の謎は解けただろう。
● (おれは)化けて出るぞ。
 ここまでくると、認識構造はさらにわかりやすくなる。話し手が、現実の自分をお化けに変えて話し手の対象の位置にすえるのである。これによって、話し手の位置も、現実の話し手の位置ではなく、想像の世界に移る。お化けになった自分を見ているのは生きた人間だから、これは自分以外の人間でしかない。しかし、これらの性質をもつ想像の世界の中の話し手が、現実の話し手から観念的に分裂するのは、現実の自分をお化けとして話し手の対象の位置におくことによって自動的に行われるのである。代名詞「おれ」は、想像の世界の中での対象化された自分と話し手との関係をとりあげているので、想像の世界の中での話し手と現実の世界の話し手との関係は直接問題にしていない。この関係を問題にするのは、助動詞の役目である。
 想像として意識的につくりあげた場合でも、夢として無意識につくりあげた場合でも、観念的な世界の中へ自分を対象として持ち込んだ場合には、それを見ているいま一人の自分が現実の自分から分裂してその中に入り込んでいるのである。一人称では話し手と別個に自分が対象化されているということを、絵画との比較において時枝誠記氏は指摘した。「画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、『私が読んだ』という表現をなすものが主体となるのである」(時枝誠記「言語学原論」)
自画像を描く画家は、鏡の映像を現実の自分であると意識するのだから、熊さんの場合と同じように「鏡の中の『私』を見て描いているこの私は一体誰だろう?」と考えて見る必要があった。鏡の前に立って描いているのも現実の自分に違いないが、これを現実の自分と見るときは、鏡の中の自分もやはり現実のままに映像として扱うべきで、それを「私」と見るならば、現実と想像とを混同することになる。鏡に中に「私」があるとするなら、それを見て描いているのは、現実の自分から観念的に分裂したいま一人の自分なのである。時枝氏が「主体の客体化」をとりあげたことは大きな功績であった。しかし、その場合の描き手・話し手の観念的な分裂を正しくつかまなかったことは、理論の展開を阻止する結果になってしまったのである。
● (きみ)はひるめしを食べたかい。
 この場合の「きみ」は、会話の相手、聞き手である。現実の話し手と聞き手との関係ではない。「きみ」は目の前の現実の聞き手ではない。過去の想像として、話し手のつくりだした観念的な世界の中へ対象化され、観念的な分裂によってその世界の中に相対している話し手との関係においてとらえられた聞き手が「きみ」なのである。
「第一人称は、第二、第三人称と共に全く素材に関するものである。・・・第二人称も場面すなわち聞き手そのものでなく、聞き手の素材化され、客体化されたものであるのと斉しい」(同上)
 だからこそ、これらが転用されるのである。一人称の「わ」「われ」は二人称としても使われる。
● してまた(わ)が身はなにゆえに。
● さてもさても(わ)ご寮は。
● やい、(われ)やぁつらに似合わぬ大悪人だ。
 人間も一種の事物だから「この人」「あのひと」を「これ」「あれ」のかたちにかえて、
● (これ)が弟です。
● (あれ)が家内です。
 と、三人称表現するのは日常誰でもやっている。
 また謡曲を見ると、
● (これ)は大江の定基出家し、寂照法師にて候。
● そもそも(これ)は桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊なり。
● そもそも(これ)はこの島に住んで神を敬い国を守る弁財天とは(わ)がことなり。
 のように、三人称を一人称として使ったり一人称と混用したりするのは普通である。
 方角を示す「こち」「そち」「こちら」、場所を示す「こなた」「そなた」「あなた」などは一人称や二人称で使われる。
● (こち)は知らぬぞ。
● (そち)は誰じゃ。
● (こちら)さん、お一ついかが。
● (こなた)はいずれよりおこしか。
● なさけなや(こな)さんは生まれもつかぬ疱瘡で。
● (そなた)とも久方ぶりの対面じゃ。
● (あなた)さまもどうぞご無事で。
 昔は、親から子へ「こなた」、夫から妻へ「そなた」、妻から夫へ「あなた」を使うなど、場所としてより遠いところを示す語ほどより大きな尊敬を示す二人称として使われていたようである。「あなた」を漢字で「貴方」「貴下」などとも書いた。
 次に、認識構造としては一人称のかたちをとりながら、一人称ではなく名詞を使って表現する例がある。これは、多くの場合、聞き手の理解を考慮してなされるものだから、聞き手の側を分析して見ることが必要である。
● (鈴木)はただいまから外出します。
● おい、(石松)をしらねえな。
 これらは、固有名詞を一人称に転用したものである。話し手が何者であるか、聞き手が記憶に基づいて追体験できるように考慮して、このような表現が行われる。
● (お母さん)は買い物にでかけるわよ。
● きさまには(お父さん)のこの苦しみがわからぬのか。
 親が子どもに話すとき、このような敬語的表現をとることがある。「お母さん」の例については時枝氏が次のように説明した。
 「母が自己に用いる敬語の如きは、子どもの世界における把握の仕方をそのまま用いたのであって、そこに母子一体の気持ちが表現されているので、決して敬語の特例ということが出来ないものである」(同上)
 これは正しい説明だが、この場合、もし母親が「わたし」と表現するなら、これは現実の母親の気持ちのままで自分をとらえたことになり、子どもの母親に対する気持ちとの間にくいちがいができてしまう。子どもがこれを追体験するには、いまの親愛感を一応すてて、現実の母親の気持ちにならなければならない。これは子どもの気持ちとくいちがっているだけでなく、現実の母親の気持ちにさせること自体いろいろな意味でのぞましくないともいえる。それでいまの親愛感を持ったまま追体験できるように、母親は進んで子どもの気持ちになり、この気持ちで対象化された自分を扱ったのである。この敬意は観念的な話し手の現実の話し手に対する敬意なのである。
 「お父さん」の場合は、これと逆になっている。子どもが父親をバカにしていて、親愛感など持っていない。父親はこれをあらためたいと思っている。もしこの場合、「おれ」という表現をすれば、子どもの現在の気持ちもそのまま追体験できるので、追体験には楽だが、父親としてはその気持ちでいることを臨まない。それでわざわざ現在の子どもの気持ちから離れて、自分が子どもに望んでいる気持ちになり、この気持ちで対象化された自分を扱ったのである。「お父さん」と表現すれば、追体験のときだけでも、子どもは親愛の情を持たなければならなくなる。いわば「言葉によるしつけ」の表現である。
 ある失業者が、銀座の街頭を、
● (この男)売りもの。
 と書いたポスターを背負って歩いたという話がある。このポスターを見る人と、ポスターを背負っている失業者との位置は「こ」の距離であり、見る人にとって失業者はまず「男」としてとらえられるだろう。追体験を考慮して「わたし」ではなく「この男」と表現したところに、作者のとらえかたのうまさを感じる。
 固有名詞の一人称転用の逆のかたち、一人称が固有名詞として使われた例を文学の中からひろってみる。
 「当年五歳の腕白者の『僕さん』(これは長男慎一郎の綽名である。僕が『僕』『僕』云うのを小耳に聞き覚えて、二歳三歳の頃から『僕』『僕』云うので、何時しか皆が僕さんと云う様になった)」(徳冨蘆花「思出の記」)


【感想】
 ここで、著者の時枝誠記に対する批判の論点が見えてきたようなな気がする。時枝誠記は、画家が自画像を描く場面を想定して、鏡に映る(描かれる)画家は「客体」(虚像)であり、描こうとしている画家を「主体」(実像)と考えているが、著者は逆に、鏡の中の画家こそが実像であり、描こうとしているのは画家の「観念」に過ぎないと主張しているのではないだろうか。著者が「唯物論」の立場に立てば、当然の批判だと思われるが、 〈時枝氏が「主体の客体化」をとりあげたことは大きな功績であった。しかし、その場合の描き手・話し手の観念的な分裂を正しくつかまなかったことは、理論の展開を阻止する結果になってしまったのである〉という時、時枝の「観念論」がどのように「理論の展開を阻止する結果になってしまったの」か、たいそう興味深い問題である。
 その他、ここでは様々な語の「一人称への転用」について述べられているが、「第一人称は、第二、第三人称と共に全く素材に関するものである。・・・第二人称も場面すなわち聞き手そのものでなく、聞き手の素材化され、客体化されたものであるのと斉しい」あるいは「母が自己に用いる敬語の如きは、子どもの世界における把握の仕方をそのまま用いたのであって、そこに母子一体の気持ちが表現されているので、決して敬語の特例ということが出来ないものである」といった時枝の論点に対する批判は見当たらなかった。
 ただ一点、時枝が「主体」と称しているものを、著者は「現実の自分から観念的に分裂したいま一人の自分」と説明している。その差異が以後の展開でどのように広がっていくのか、興味を持って読み進みたい。(2018.1.19)