梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・12

2 代名詞の認識構造
a 話し手の観念的な分裂
 「あなた」「かれ」、「あれ」「これ」など、代名詞と称する一連の語がある。名詞に代わって使われるのだから、名詞と同じ意味を持っているかというと、決してそうではない。とりあげている対象は同じであっても、そのとりあげかたがちがっている。とりあげかたのちがいを分析して、代名詞の特徴を正しくつかむことが必要である。
 名詞は、事物についての認識を表現するにとどまっており、話し手との関係は表現されていない。代名詞の「これ」には、話し手と対象との距離が「こ」と表現されている。対象と話し手とは「こ」の関係に立っているのである。話し手と対象との関係は、次のどれかに入るはずである。
1 話し手と話し手自身との関係
2 話し手と聞き手との関係
3 話に扱われる人間・事物・場所、方角などとの関係
 ここから、一人称、二人称、三人称などの分類ができる。また、事物の表現において、口語では、「これ」(近称)、「それ」(中称)、「あれ」(遠称)、「どれ」(不定称)
 などといい、人物の表現において、
文語では、「われ」(話し手)、「なれ」(聞き手)、「かれ」(第三者)
 が使われる。一方では、これらの語から「れ」を取ったかたちで、
(こ)の絵、(そ)の本、(あ)の山、(ど)の山、(わ)がなみだ、(な)がいのち、(か)のひと
 などとも使う。だから「これ」「それ」などは実は複合語で、このうちの「こ」「そ」などが話し手と対象との関係を表現した代名詞としての基本的なありかたであり、これらに事物を意味する抽象名詞の「れ」を組み合わせてできたものと考えられる。また、会話の中で、
● (この)始末はどうしてくれる。
● (その)所有権は彼にある。
● (あの)うしろがあやしいぞ。
 などというときは、かたちは同じでも、前の場合とはちがっている。単に話し手と対象との関係だけを意味しているのではなく、その関係において存在する事物をもふくめて扱っている。「こ」は盗難事件を、「そ」は住宅を、「あ」はカーテンをもふくめて扱っているのである。前の場合とは区別しなければならない。
 以上が、代名詞の性格だが、一人称とて説明した「話し手と話し手自身との関係」には、言語全体(表現全体)に関した大問題を解く鍵がひそんでいる。
 代名詞の一つとされる「おのれ」は「おの」と「れ」の複合語と考えられるが、
● (おのれ)の長を誇ることなかれ。
● (おの)が身はかえりみず。
 山田孝雄氏は、この「おのれ」を特殊な性格を持つ代名詞として、反射指示と呼び、ほかの代名詞と区別した。
 「反射指示とは称格の如何に関せずして専ら実体その者につきて指すものをいふ。・・・・之を反射といふは吾人と其者との思想上の関係は実体より出で又かへりて実体をさすこと恰も物影の反射するが如き性質を有するを以てなり」(山田孝雄「日本文法学概論」)
 いま、これを二人称として、聞き手に使った場合、
● (おのれ)にっくきやつだ。
 は、以下の図のようになる。(注・クリちゃんが他の男児と向かい合っている。クリちゃんから男児の方に点線の直線が引かれている。男児の右側頭部から正面に向かって実線の曲線が円を描くように引かれている。実線の先端には矢印があり男児の鼻先を指している)
 この代名詞が直接表現している関係は、聞き手自身(注・男児)から出てまたかえる、反射的なあるいは円環的な関係である。しかし、問題はこの場合の話し手(注・クリちゃん)との関係、すなわち図の点線に示された関係がその《うしろにひそんでいる》点にある。話し手は聞き手の円環をひきだす形をとっている。これは表現の上にはあらわれてこないが、存在しないわけではない。「おのれ」の反射的な関係に目をつけながら、認識論の欠陥のために話し手と対象との関係と反射的な関係との結びつきを正しくたぐっていけなかったところが、国語学者の弱点だったのである。今度は一人称で、
● (おのれ)の不明を恥じるのみです。
 と表現する場合はこれらの関係はどうなるだろうか。まず、身振りで「おのれ」「おれ」「われ」などを示せば、腕をまげ、指先を自分のほうへ向けるだろう。この腕のかたちは、反射的なあるいは円環的なかたちになる。つぎに、指先を矢印の先端と考えて、その反対の方向に線を延長すると、会話の場合なら聞き手がいる位置になる。そこに自分を対象としている人間を想定して図を描き、二人称の「おのれ」の図とくらべてみると、二人称
の「おのれ」を《ひっくりかえしたかたち》になることがわかる。「おのれ」が二人称になるときも一人称になるときも、反射指示として変化しないことはもちろんだが、話し手との関係も変わることなくただひっくりかえしたかたちになることを見ぬくとき、山田氏の反射指示と称格指示との本質的な一致を理解できるのである。このような構造上の一致があるからこそ、「おのれ」もふくめて代名詞のそれぞれが相互に転用できるのである。
 第一篇で述べたように、地図を描くときの子どもは、現実は地上におりながら、観念的には空中高く上ったところに位置を占め、そこから地上を見下ろすというかたちをとっている。一人称の話し手も、現実の自分から観念的に分裂する。現実には対象である自分と話し手とは同一の人間だが、認識構造としての観念的な話し手の位置は現実の話し手の位置から分離して別のところにあり、そこから対象としての自分を扱うのである。この《観念的な分裂によって、両者の間に話し手と対象との関係がうまれ》、これが一人称として表現される。話し手と対象との関係を表現するということが代名詞の本質であって、その関係が現実に存在するか、それとも観念的な分裂によってうまれたものかは代名詞の本質とは関係ない。観念的な分裂での話し手と対象の位置のちがいも、現実のそれと同じように近称その他のかたちで表現される。
● (わたし)は(ここ)にいる。
● 万事(この)(おれ)がひきうけた。
 これらの場合、話し手は現実の自分から観念的に分裂し、「こ」と表現するにふさわしい距離をとって、そこから自分をとらえているわけである。
 「おのれ」だけでなく一人称の身ぶりはすべて腕を円環のかたちにもっていく。まるい物を「わ」ということと、一人称が「わ」「われ」「わたくし」「わたし」などとなっていることは偶然の一致だろうか。それとも関係があってのことだろうか。
【感想】
 代名詞の本質は、話し手と対象との関係を表現する。その関係とは、①話し手と話し手自身との関係、②話し手と聞き手との関係、③話に扱われる人間・事物・場所、方角などとの関係のいずれかである。
 ①の場合、話し手は「私」「おれ」「おのれ」「われ」等の一人称で自分を表現するが、それらの代名詞は、話し手が自分自身を対象化して使われるということである。「私は学生だ」と言うとき、その「私」は、話し手自身のことを指しているが、そこには指している私(主体)と、指されている「私」(客体)が同時に表現されているということであろう。そのことを著者は〈一人称の話し手も、現実の自分から観念的に分裂する。現実には対象である自分と話し手とは同一の人間だが、認識構造としての観念的な話し手の位置は現実の話し手の位置から分離して別のところにあり、そこから対象としての自分を扱うのである。この《観念的な分裂によって、両者の間に話し手と対象との関係がうまれ》、これが一人称として表現される〉と述べている。
 その論脈は、時枝誠記の「言語過程説」と大差はないように思われるが、どうだろうか。
 著者は「おのれ」が一人称として使われる場合と、「おのれ、にっくきやつだ」のように二人称として使われる例を挙げて、両者を図示し、〈そこに自分を対象としている人間を想定して図を描き、二人称の「おのれ」の図とくらべてみると、二人称の「おのれ」を《ひっくりかえしたかたち》になることがわかる。「おのれ」が二人称になるときも一人称になるときも、反射指示として変化しないことはもちろんだが、話し手との関係も変わることなくただひっくりかえしたかたちになることを見ぬくとき、山田氏の反射指示と称格指示との本質的な一致を理解できるのである〉と説明しているが、二人称の「おのれ」の方から説明を始めたのはなぜだろうか。通常は一人称として使われる「おのれ」を、あえて二人称として使う場合とはどんな場合なのか、については判然としなかった。
 芥川龍之介の句に「青蛙おのれもペンキ塗り立てか」がある。青蛙に向かって「おのれ」と呼びかけているのはどんな心情なのか。「おのれ、にっくきやつだ」の心情とは異なるように思えるのだが・・・。
 次を読み進めることで、何かがわかるかもしれない。
(2018.1.16)