梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・10

第二章 日本語の文法構造・・その一、客体的表現にはどんな語が使われているか
1 名詞のいろいろ
【要約】
a 対象のありかたとそのとらえかた
 言語の構造を考えるとき、話し手が対象とする、現実の世界がどんな構造になっているかをときほぐしていまなければならない。
 現実の世界では、いろいろな構成分子を区別できる。木、草、犬、猫、人間、家、山、川などの物体があり、これらの実体にはそれぞれの性質が付属していて、つめたい、あたたかい、動く、歩く、死ぬ、くさる、くずれる、ながれる・・・、そのほかのいろいろなことがついてまわったり、起こったり消えたりする。これを属性と呼ぶ。また、実体や属性の相互の間に、いろいろな関係がある。これ自体は感覚的なものを持っていないから、表現にあたっても家族関係、生産関係、因果関係などと具体的な事物や規定の表現に「関係」という語を添えるのが普通である。場合によっては、事件との「つながり」があるとか、親子の「縁」を切るというかたちの表現もとられている。さらに、これらの多くが結びついて一つの統一体を形づくっているものとしてとらえた場合、家庭、学校、動物園、デパートとか都会とかいうような存在もある。
 わたしたちが現実を対象として、そこから一つの概念をつくりあげ、それを一つの語として表現するとき、対象の持っている性格に対応して、語の表現としての性格もきまってくる。そこで、すべての語をそれぞれの系列に属するものとして整理し、語をいくつかの種類に区別できる。物体または観念体を表現した「木」「草」「犬」「猫」「概念」「思想」などは名詞と呼ばれ、運動し変化する属性を表現した「うごく」「あるく」「くずれる」「ながれる」などは動詞と呼ばれるというように、品詞としての区別が行われている。
 次に、現実そのものの構造に対して、話し手がそれをどの面からとらえ、どの角度からとりあげるかという、とらえかた、とりあげかたの問題が起こってくる。同じ対象でも、● これは(動物)だ。
● これは(人間)だ。
● これは(女)だ。
 などという場合は、それを実体としてとらえているが、
● これは(妻)だ。
● これは(親)だ。
● これは(犯人)だ。
 などの場合は、単なる実体としてではなく、関係の認識が入っている。さらに、
● 水はつめたい。
 の表現で、実体と属性との関係は、直接つながっているものとしてとりあげられている。現実においても、水とつめたいという性質とは別個に存在してはいない。しかし、つめたいのは水ばかりではない。風も、金属も、アイスクリームもつめたく感じる。他人の態度からもこれに似た感情をうけることがある。人間の頭は、現実にきりはなすことのできないものでも観念的にきりはなすことができるので、これらの異なった実体に共通した属性を実体と関係なしに一つの存在としてとりあげる場合がある。存在としてとりあげるのだから、これは実体と同じ扱いかたになる。前と同じ水を対象としても、つめたいという属性を一つの存在としてとりあげると、
● 水の(つめたさ)
 というかたちの、名詞化した表現になる。
 話し手の位置が動いているか否かも、対象のとらえかたに関係してくることは、
● 鳥が(飛んでいく)。
 に対して、
● 森や林や田や畑、あとへあとへと(飛んでいく)。
 をくらべてみれば明かである。対象そのものは動いていなくても、話し手が動いているために、目には対象がうごいているように見えるので、それを忠実に表現したわけである。
 以上のべたことは、わかりきったことのように思われるかもしれないが、どれもたいへん重要な示唆をふくんでいる。


【感想】
 ここで著者が述べている要点は、①対象(現実の世界の構造)の《ありかた》、②その対象を(人間がどのように認識するかという)《とらえかた》、③さらに、対象(実体)の属性を、「実体と同じ扱いかた」で《とりあげる》場合がある、ということであろうか。私なりに要約すると以下のようになる。
 〈現実の世界には、構成分子としての物体(水、草、山、川など)と観念体(感覚、概念など)がある。これらの実体には、属性(つめたい、流れるなど)がある。実体と属性の相互の間には「関係」(家族関係、生産関係、因果関係など)がある。それらが《対象のありかた》(現実の世界の構造)である。
 物体、観念体を表現する語を「名詞」と呼び、運動し変化する属性を表現する語を「動詞」と呼ぶ。 
 現実そのものの構造を、話し手が《どの面からとらえ》、《どの角度からとりあげるか》という問題が起こってくる。同じ対象でも「動物」「人間」「女」などと《実体としてとらえる》場合と、「妻」「親」「犯人」などのように《関係の認識が入る》場合がある。
 実体と属性との関係は「水(風、金属、アイスクリーム)はつめたい」のように直接つながっている場合もあれば、「つめたい」に似た感情を、他人の態度からうけることもある。またこの属性を一つの存在としてとりあげる場合があり、それは実体と同じ扱いかたとして「水のつめたさ」というかたちの名詞化した表現になる。
 話し手の位置が動いているか否かも、対象の《とらえかた》に関係してくる。「鳥が飛んでいく」に対して「森や林や田や畑、あとへあとへと飛んでいく」は、動いている話し手の目には対象が動いているように見えるので、それを忠実に表現したということである〉。
 著者は時枝誠記の「言語過程説」の欠陥として、〈「関係」として考えるべき言語の「意味」を「機能」として考えたことであり、言語道具観がとりあげた「言語」または「言語の材料」の正体は、「表現上の社会的な約束の認識」だが、時枝は個人的な能力(受容的整序の能力)に基礎づけた点〉を挙げているが、ここまでの部分では時枝の《誤り》を見つけることはできなかった。強いて言えば、人間の認識は、現実の世界の構造の《反映》であり、対象の《ありかた》を《どの面からとらえ》《どの角度からとりあげるか》という観点が欠けている、という点であろうか。先を読み進めながら検討していきたい。(2018.1.9)