梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・9

3 時枝誠記氏の「言語過程説」
 これまでの言語学では、言語を一つの道具として理解していた。頭の中に道具があって、これを使って思想を伝達すると考えた。この道具は、概念と聴覚映像とがかたく結びついて構成された精神的な実体と説明され、「言語」または「言語の材料」と呼ばれている。時枝氏はこの言語構成観あるいは言語実体観をあやまったものとしてしりぞけ、対象→認識→表現の過程的構造が言語の本質であると主張した。
 時枝学説に対して言語学者は否定的であり国語学者の中でも賛否両論がある。しかし、「過程説」がうまれたことは歴史的な一つの必然として考えられなければならない。世界は出来上がった諸事物の複合体としてではなく、ある「過程の複合体」としてとらえるべきだ、というのは、ヘーゲル哲学の革命的な見かたであり、この弁証法的な世界観は現在の科学によって確認されている。言語過程説の提出は、弁証法的言語観の出現を意味している。この言語観の出現にあずかって力のあったものは、日本の古い国語学者たちの持っていた素朴な言語観であり、またヘーゲル哲学の流れをくんでヨーロッパの哲学者たちによって論じられた「現象学」の中に含まれている弁証法的な考え方であった。時枝氏が思想の構造について理解するために「現象学」の助けを求めたということは、プラスの面ばかりでなく、その限界ないし観念論としての欠陥を言語過程説の中へもちこんだというマイナスの面をも持っていることは事実であり、これが言語過程説を否定する人たちの理論的根拠になっているようである。わたしたちはこのマイナス面を克服し、プラス面を正しく発展させなければならないと思う。
 時枝氏の理論が、それまでの理論にくらべて優越している点としては、
一 言語を過程的構造においてとりあげたこと
二 語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと
三 言語における二つの立場・・主体的立場と客体的立場・・の差別を問題にしたこと
 があげられる。また欠陥としては、
一 言語の本質を「主体の概念作用にある」と考えたこと
二 言語の「意味」を「主体の把握のしかた、すなわち客体に対する意味作用そのもの」と考えたこと
三 言語表現に伴う社会的な約束の認識と、それによる媒介過程が無視されていること
四 認識を反映と見る立場が正しくつらぬかれていないこと。与えられた現実についての表現と、想像についての表現との区別およびその相互の関係がとりあげられていないこと。ここから主体的立場の規定も混乱していること
 時枝氏が言語を過程としてとりあげようとしたことは正しかったが、言語と言語活動が同一だということにはならない。時枝氏の「意味」についての誤解は、この混同をもたらす結果になった。音声や文字は、それ自体物理的な空気の振動であり、石の上にできた亀裂のようなもので、そこに「意味」はないと考えた。では、どこに「意味」があるか?言語の過程としては、対象が必要であり、概念もつくられるが、これらが表現のあとで消え失せてしまっても、音声や文字は言語としての資格を失わない。これらは言語の成立条件であっても言語の構成部分ではない。すると、対象・認識・表現のいずれも「意味」ではなく、それら以外に「意味」を求めなければならなくなる。そこで時枝氏は、この表現を行う主体の活動そのものが「意味」であると結論した。時枝氏が実体を「意味」と考えてはならぬと主張したことは正しかったが、「意味」のありかたを実体から機能にうつしたことはまちがいであった。「意味」は機能としてではなく、関係として考えるべきであった。音声や文字は、それが創造されるまでの過程的構造と、それらの創造されたかたちにおいてむすびついている。この関係そのものは目に見えないため、見のがされてしまったのであった。音声や文字のかたちは、その過程的構造との関係において、すなわち音声や文字は表現形式と表現内容との統一において理解されなければならないと、言語過程説を訂正する必要がある。
 時枝氏は言語道具観を否定して、個々の具体的な言語以外に言語はないと主張した。これは正しかった。けれども言語道具観がとりあげた「言語」または「言語の材料」の正体が何であるかを明らかにすることができず、これを否定したため、言語道具観の支持者を充分に説得することができなかった。聞き手が耳にした音声から話し手と同じような概念を思い浮かべる事実を、時枝氏も認める。これが社会的な習慣 として成立していることも認める。しかしその習慣が成立し保持されていることの基礎を、表現上の社会的な約束の認識(「言語」または「言語の材料」と解釈されている抽象的な認識)に求めるのではなく、「本質的には、個人の銘々に、受容的整序の能力が存在する」(「国語学原論」)からだと、個人的な能力に基礎づけたところに、まちがいがあった。ここに、言語過程説は個人主義的、心理主義的な学説だと非難が浴びせられる一つの根拠があったのである。
 時枝氏は言語過程説に基づく日本語の文法体系を提出した。理論の長所も欠陥も、そこに具体的なかたちをとってあらわれている。これからのわたしの説明と、時枝氏のそれとを比較していただければ、その長所も欠陥もよく理解していただけると思う。


【感想】
 ここでは、時枝誠記の「言語過程説」に対する著者の見解が明確に述べられている。その長所は、それまでの「言語道具観」を否定し、「語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと」である。欠陥は、「関係」として考えるべき言語の「意味」を「機能」として考えたことであり、言語道具観がとりあげた「言語」または「言語の材料」の正体が何であるかを明らかにすることができず、否定してしまったことである。
 著者は、それらを「表現上の社会的な約束の認識」だとしているが、時枝は個人的な能力(受容的整序の能力)に基礎づけた点が誤りだとしている。「時枝氏は言語過程説に基づく日本語の文法体系を提出した。理論の長所も欠陥も、そこに具体的なかたちをとってあらわれている。これからのわたしの説明と、時枝氏のそれとを比較していただければ、その長所も欠陥もよく理解していただけると思う」と結んでいるので、今後が楽しみである。
 現代でも、言語は「頭の中に蓄えるもの」であり、その量が多ければ多いほど言語能力は高いとされるのが通説ではないだろうか。言語は学習によって身に付けるものであり、大脳皮質には「言語野」という領域まで想定されている。私自身は現職時代、「ITPA言語学習能力診断検査」なるもので、視覚回路、聴覚回路、受容能力、類推能力、表現能力、表象水準、自動水準といった観点から言語能力実態を理解しようとした経験があるが、それらの知識と著者および時枝の言語理論にはどのような関連があるのだろうか。そうした問題意識をもって次章以降を読み進みたい。(2018.1.8)