梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・8

第二部 日本語はどういう言語か
第一章 日本語はどう研究されてきたか
1 明治までの日本語の研究
【要約】
 古代の日本人の言語観では、私たちの言語表現が霊力を持っていて、表現された内容が現実化するものと考えた。これを「言霊」と呼んでいる。
 明治以前に行われた日本語の研究を、現在の言語学者が無視し、排撃する理由は、この「言霊」説によって日本語を解釈する学者があったためである。しかし、江戸時代の研究はすべて神がかりでありナンセンスであったということにはならない。
 昔から日本語の研究は、日本語そのものを対象とする研究が独立して行われたのではなく、言語的な実践(古文の研究、和歌の創作、漢語、梵語の学習など)に従属したものとしてすすめられてきた。江戸時代に入ると、国学がおこり、これが日本語の研究に大きな発展をもたらした。本居宣長のように、国学の大家は同時にまたすぐれた日本語学者でもあったわけである。富士谷成章、鈴木アキラ、本居春庭、東条義門などの学者があらわれて、テニオハの研究が進められ、活用についての体系的な説明が完成した。彼らの日本語研究には、日本語の持つ重要な特徴がとらえられており、言語の本質についても注意すべき考えが見られる。江戸時代も終わりに近くなると、日本語の研究が国学から独立する傾向がみえ、「語学家」が多くあらわれるようになった。ヨーロッパの文法書が輸入され、これが日本語の研究に影響をおよぼすことになった。天保四年に鶴峯戌申の著した「語学新書」はヨーロッパの理論を取り入れたはじめてのものであり、明治以後、学校の文法教科書に大きな影響を及ぼしたという点で注目すべき存在である。


2 明治以後の日本語の研究
 明治維新以後、日本語の研究は、一般国民の教育のために使われるようになり、学校の教科書として多くの書物がつくられるようになった。
 明治30年、大槻文彦氏はヨーロッパの理論との折衷の典型である「広日本文典」を世に送り、これが昭和までの教育界の主流としての地位を占めた。
 昭和に入ってからは、橋本進吉氏の教科書「新文典」が出、その語、文部省から出た国定の文法教科書はこの流れをくんだものであり、その結果、現在の主流は橋本学説になっている。
 山田孝雄氏は明治41年に「日本文法論」を公にし、その発展として昭和11年に「日本文法学概論」を出した。山田氏は、具体的な日本語のありかたに即してそれを深く掘り下げることに努力し、言語に表現される思想を重く見て、これに心理学、論理学の力を借りて検討しながら体系を組み上げていっている。江戸時代の日本語の研究を正しくうけつぐ努力もうかがわれる。
 山田氏が内容の面を重視したのに対して、橋本氏の学説は外形を重んじ、これを基準として規定を行う形式主義的なところに特徴がある。独立と非独立という外形で詞と辞の分類を行ったり、息の切れ目で文節を分けたりするような方法がとられている。橋本氏の門下である時枝誠記氏は、これらの学説とは異なった独自の言語本質観に立って、これらの偏向を克服しその成果をとりいれる努力をした。
 心理学者・佐久間鼎氏は、江戸時代から現在に至る口語の表現をたくさん集め、これを表現が行われる具体的な場において検討し、整理し、そこから体系を組み立てようとしている。
 外国の言語学では、昭和3年に出版されたソシュールの「言語学原論」およびその学派の理論が、日本語の研究に大きな影響を与えている。多くの国語学者が、この理論と同じような説をとなえ、賛意を表している。ソシュール理論に対しては、時枝氏が破壊的な批判を加え、佐藤喜代治氏ほか国語学者からの批判にも見るべきものがあるが、その完全な克服とまでは行っていない。
 ソヴィエトの言語学は、戦前、マルの理論が紹介され、戦後、スターリンによって批判されたが、ヨーロッパの言語学を批判し、その弱点を指摘した点で多くの聞くべきものをもっていたことは否定できない。
 明治の日本語研究は、ヨーロッパ言語学の刺激を受けて、江戸時代に扱っていなかった分野に研究の手をのばすようになった。比較言語学としては、日本に近接している諸民族の言語(朝鮮語、アイヌ語、琉球語その他)との比較研究が盛んになり、次に日本語の歴史について多くの資料に基づいた実証的な研究がすすめられて、古代の日本語の語源、語法、音韻、仮名づかいなどが次第に明らかになってきた。


【感想】
 ここでは古代から現代(昭和中期)までの日本語研究の流れが概説されている。古代には、言語には霊力があるという「言霊」説があり、宗教の世界では現代でも通用している。以後、日本語の研究は「言語的な実践(古文の研究、和歌の創作、漢語、梵語の学習など)に従属したものとしてすすめられてきた」が、「明治維新以後、日本語の研究は、一般国民の教育のために使われるようになり、学校の教科書として多くの書物がつくられるようになった」。私たちが学んだ「国文法」の体系は、橋本進吉の教科書「新文典」に因るということがわかった。しかし、橋本の門下生である時枝誠記は、それがヨーロッパの言語学を日本語に「当てはめたに過ぎない」と批判し、独自の言語本質観を確立しようとしたということである。昭和初期にはソシュールの言語学が紹介され、多くの言語学者が賛意を表したが、時枝は「破壊的に批判」した。その内容は「国語学原論」で展開されているが、要するに、言語は実体であるとする「言語構成観」を否定し、「言語は《表現・認識の過程である》とする「言語過程説」を提唱したということである。
 次項では、それに対する著者の見解(批判)が述べられる。期待を持って読み進めたい。(2018.1.8)