梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・7

2 時枝誠記氏の「風呂敷型統一形式」と「零記号」
 すべて認識は、認識の対象と認識する人間(主体)の存在を必要とする。お化けや天使は現実には存在しないが、これを認識する人間は自分の頭の中に空想の対象を想定しているのだから、この意味で対象が存在していることになる。対象をとらえた認識と、それに伴ってうまれた感情・判断・欲求などとを区別するために、机のひきだしのかたちを使うことにする。これは時枝誠記氏の考案したもので「風呂敷型統一形式」と名づけられている。
● 客体(対象)・・・反映・・・→主体
● 《火事》(客体的表現)〈だ〉(主体的表現)
 時枝氏は客体的表現を詞、主体的表現を辞と呼んだ。そして「詞が包まれるものであり、辞が包むものであるといえる」「言語主体の立場において見るならば、辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができるのである。従って、包まれるものは、主体に対する客体的存在の表現に違いないが、包むものは、主体の包むことの表現であるという方が適切である」(時枝誠記「国語学原論」)という解釈から、包むものすなわち風呂敷として風呂敷型統一と名づけた。この解釈は、認識を反映として理解する立場から外れているから、これをそのまま採用することはできない。時枝氏は、言語の「意味」を表現それ自体が持っている客観的な関係と考えるのでなく、「主体的意味作用」(同上)として、話し手の活動そのものに求めた。ここから詞と辞との意味のつながりも、当然に「意味作用」のつながり、すなわち活動そのもののつながりに求めなければならなくなった。そして「包むこと」「総括機能」という話し手の活動そのものによって詞と辞との統一を説明する結果となったのである。
 思想の持つ統一性は、話し手の活動によってつくりあげられるにはちがいないが、これは現実の世界での統一すなわち対象と話し手のありかたによって基礎づけられているのであって、話し手の観念的な活動によってはじめて「総括」や「統一」が発生するわけではない。しかし、観念論では、現実の世界そのものが統一されており構造を持っていること、観念がその反映としてそれによって規定されていることを、否定する。時枝氏も、意味論のあやまりから、この種の観念論と同じ考えかたにおちこんでしまったのである。
 これからさき、言語の構造を説明するにあたって、わたしも時枝氏の風呂敷型統一形式を使うが、この統一は「辞が包むものである」という「総括機能」から生まれたと解釈して使っているのではない。対象と話し手との現実の統一の反映によって生まれたものとして理解していただきたい。
 先にあげた「おーい」、「火事!」を統一形式で書くと以下のようになる。
● (零記号)おーい
● 《火事》(零記号)
 ( )は、認識としては存在するが表現において省略されていることを意味する。時枝氏はこれを言語形式零という意味で「零記号」と呼んでいる。この考え方に対して「何ら有形的なものとして表現されていないものに対して、聞き手はどうして理解の手がかりを得ることがでるであろうか。かりにそれが可能であるとしても、それをはたして言語といい得るであろうか。これもやはり心理主義に陥ったものといわざるを得ない」(佐藤喜代治・「国語学概論」)という反対論がでているが、映画のフィルムで素抜けの透明な真っ黒な画面もある、そこには有形的な表現はなく、それだけを見れば何の意味もない表現形式「零」ともいえるが、爆発の閃光や停電の場面に用いられれば無意味ではない。部分的に理解できないということはそれが全体的な観点から推察できるということを排除するものではない。黒白の映画から対象のもつ色彩や作者の色彩感覚を想像するのは表現の理解を深めることであって、これを色彩形式零の表現と考えたところで、心理主義でも何でもない。
 図解による構造の説明は、立体的なものを平面化し、流動的なものを固定化して扱わなければならないので、いろいろな制約がうまれるが、これらを考慮して使えば、非常に有効なものであることはたしかである。風呂敷型統一形式と零記号の使用が、言語の文法構造を理解する上にどんなに役立つか、本書の第二部を読めばよくわかるだろう。


【感想】
 前回の感想で「次節は、いよいよ時枝理論に対する著者の見解が直接述べられる。どのような批判が行われるか、興味を持って読み進みたい」と書いたが、その批判の核心は、要するに、著者は「認識を反映として理解する立場」(弁証法的唯物論の反映説)から、時枝の「意味論」を否定していることであろう。〈時枝氏は、言語の「意味」を表現それ自体が持っている客観的な関係と考えるのでなく、「主体的意味作用」として、話し手の活動そのものに求めた。ここから詞と辞との意味のつながりも、当然に「意味作用」のつながり、すなわち活動そのもののつながりに求めなければならなくなった。そして「包むこと」「総括機能」という話し手の活動そのものによって詞と辞との統一を説明する結果となったのである〉とある。私は《第二章 1言語の「意味」とは何か》の感想で、〈著者のいう《客観的な関係》と、時枝のいう《素材に対する言語主体の把握の仕方》とは同じことを指しているのだろうか。〉と書いたが、やはり両者は違うことを指しているということがよくわかった。
 なるほど著者は、時枝の、
● 客体←・・・辞・・・←主体(「国語学原論」・詞辞の意味的連関)
 という図を
● 客体(対象)・・・反映・・・→主体
 のように修正している。
 おそらく、時枝理論はの認識論は「観念論」の枠を出ていないという批判だと思われるが、その違いが第二部の「文法論」でどのようにあらわれてくるか、きわめて興味深く、期待を込めて読み進みたい。(2018.1.5)