梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・6

第三章 言語の特徴・・その二、客体的表現と主体的表現が分離していること
1 客体的表現をする語と主体的表現をする語がある
【要約】
 いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、二つの種類に分けられることがわかる。
一、客体的表現
二、主体的表現
 一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語である。「山」「川」「犬」「走る」などであり、主観的な感情や意思などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば、「悲しみ」「喜び」「要求」「懇願」などと表現する。
 二は、話し手の持っている主観的な感情や意思そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語である。悲しみの「ああ」、喜びの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など感動詞といわれるものをはじめ。「・・だ」「・・ろう」「・・らしい」などの助動詞、「・・ね」「・・なあ」などの助詞などいろいろあげることができる。
 このような区別は、日本では古く鎌倉時代から問題にされており、徳川時代に入ると、本居宣長門下の国語学者鈴木アキラがその性格の違いを明確に指摘している。アキラは、体の詞、作用の詞、形状の詞の三種の詞とテニオハを区別して、
    三種の詞              テニオハ
○さす所あり             さす所なし 
○詞なり 声なり
○物事をさし顕して詞となり 其の詞につける心の声なり
   ○詞は玉の如く 緒の如し
○詞は器物の如く それを使い動かす手の如し
○詞はテニオハならでは働かず 詞ならではつく所なし
 というかたちで説明した。詞を「物事をさし顕す」客体的な表現、テニオハをそれにつく「心の声」すなわち主体的な表現と見たのは、正しく的にあたった見事な直観ということができる。
 絵画や映画は客体的表現と主体的表現の統一であり、この二つの表現は切り離すことができない一つの画面として存在するが、言語では、
●火事(客)・だ(主)のように、客体的表現と主体的表現が分離していて、二種類の単語を組み合わせて表現するのが普通である。
●ええ。(主)
●行く。(客) 
 のように、主体的表現、客体的表現だけを単独に使うこともある。
 言語は、絵画や映画のように対象の感性的な面をとらえて模写する表現ではない。ということは、主体的なありかた表現が、客体的表現からきりはなせないものとしてついてまわるという制約からの解放でもある。言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたということは、一方では表現のための社会的な約束を必要とし、他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果をうみだしたわけで、ここに言語の本質的な特徴をもとめなければならない表現の二重性は、絵画や映画の場合では客体的表現と主体的表現の統一として存在したが、言語ではこれが分離したかわりに、今度は言語的表現と非言語的表現というかたちの二重性がうまれている点がちがっている。
●おーい。(主)
 これは、向こうにいる人に対する呼びかけの言葉である。この話し手は相手を見ている。対象についての認識を持っている。ただそれが表現されないだけのことである。必要なら、●おーい、太郎くん。
 というかたちで、客体的表現をつけ加えるだろう。また、夜空が赤くなっているのを見て、
●火事!
 と叫ぶ人は、判断もあればよびかける意思もありながら、それを言語として表現せずに、客体的表現にとどめている。判断もよびかけも表現すると
●火事・だ・よ!
 というかたちをとるだろう。
認識と表現とのあいだにくいちがいがあることは、絵画や映画を見てもわかる。(鉛筆のスケッチや黒白映画、画面のワクなど)
 言語でも同じことがいえる。文法で規定されている表現だからといって、それが認識そのままの忠実な表現だとはいえない。文法の規定自体が、すでに表現の省略をふくんでいるということを予想する必要がある。語の見かけのつながりをしらべて表現上の法則性をとらえただけでは文法を正しく理解できないばかりでなく、まちがった解釈を下す危険がある。認識の構造をしらべ、それと表現の構造との関係において検討していかなければならない。


【感想】
 ここでは言語の特徴として、「客体的表現と主体的表現が分離していること」が述べられている。絵画や映画は一つの画面の中に客体的表現(描かれている事物)と主体的表現(作者の視点)が《統一》されているが、言語では客体的表現(詞)と主体的表現(辞)が《分離》しているということである。 
 著者は「言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたということは、一方では表現のための社会的な約束を必要とし、他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果をうみだしたわけで、ここに言語の本質的な特徴をもとめなければならない。表現の二重性は、絵画や映画の場合では客体的表現と主体的表現の統一として存在したが、言語ではこれが分離したかわりに、今度は言語的表現と非言語的表現というかたちの二重性がうまれている点がちがっている」と述べているが、その中の「言語的表現と非言語的表現というかたちの二重性」という点が、語られる内容と話し手の音声(声音、音質)の二重性なのか、客体的表現と主体的表現の二重性なのか、判然としなかった。
 しかし、ここで述べられていることも「国語学言論」(時枝誠記)の文法論「単語における詞・辞の分類とその分類基礎」を踏襲しているように感じられる。
 次節は、いよいよ時枝理論に対する著者の見解が直接述べられる。どのような批判が行われるか、興味を持って読み進みたい。(2018.1.5)