梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・5

5 音韻およびリズムについて
 言語学では、音声と音韻を区別している。個々の音声の個性を引きこれは去った共通の面がある点をとりあげて、これを音韻と呼ぶならわしになっている。これは、表現の二重化の自覚である。音声そのものが言語としての表現ではなく、音韻と呼ばれる面が言語表現であることの自覚である。音声は具体的であるが音韻は抽象的である(金田一氏)、音声は客観的であるが音韻は主観的である(神保氏)、音声は具体的であるが音韻は理念的である(有坂氏)、音声は生理的であるが音韻は意識的である(時枝氏)などと説明されている。この場合、音声が一般的な面を持ち、音韻を音の一族であると認めることは大切である。「デンキ」(電気)の「ン」はnであり、「デンパ」(デンパ)の「ン」はmとして、異なった音の種類に属していながら、日本語の撥音としては同じ種類であり、同じ音の中での小さな差別として考えられている。日本語の音韻はn、mではなく「ン」なのである。音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音の一般的な面であり一族であることを理解することが必要である。 
 それぞれの民族語には、音韻としての特殊性と、リズムとしての特殊性がある。前者が言語的表現としての特殊性であるのに反し、後者は非言語的表現としての特殊性であって、外国語の語彙をとりいれるときはいつでもこの両側面からの規定を受けることになる。「ラジオ」は日本語としては同じ時間をもつ三つの音韻から成立するものとなり、英語のそれと比べると大きな変化だといわなければならない。等時的なリズムで表現されるべき日本語に、英語のリズムを持ち込むと「ゴーメンナサイ」などいわゆる「外国式の発音」になる。日本語のリズムが等時的であることから、いくつかの音のあつまりを一つのグループとして、このグループ間のリズムを用いる表現が発展した。→「七五調」


【感想】
 ここの内容は、「国語学原論」(時枝誠記)の「音声論」で述べられていることを、ほぼ踏襲していると感じた。
 しかし、現代の「日本語」は変わりつつある。その変化は、特に歌曲の世界で甚だしい。もともとは洋楽のリズム、メロディーに日本語の歌詞を当てはめようとしたことによると思われる。例えば、「蛍の光」では「ホタールノ ヒカーリ マドノ ユーキ」のように日本語の等時的なリズムは無視され、また「故郷の空」では「ユウゾラハレテ アキカゼフキ」のように秋風の「ア」のアクセントが強調されている。さらに時間が流れて、今や「七五調」のリズムはほとんど見当たらない。「勝手にシンドバッド」「愛しのエリー」などを皮切りとして、歌曲の「音韻」までも意図的に「英語化」されている。
 日本語の美しさの象徴である「鼻濁音」も消失した。「長崎の鐘」は「な蛾さきのかね」となり、「な愚さめ 禿増し」と歌われているのが現状ではないだろうか。
 いずれにせよ、「音韻は、表現上の社会的な約束に結びついている音の一般的な面であり一族であることを理解することが必要」なのだから、その現状を受け入れている社会が続く限り、「日本語」は限りなく「英語」に近づいていくのではないかと思った。