梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・4

3 辞書というものの性格
【要約】
 《辞書の中に言葉がある》という解釈は正しいだろうか。
「辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画の様なものであって、具体的個物の見本に過ぎないのである。辞書は具体的言語に関する科学的操作の結果出来上がったものであって、それ自体具体的な言語ではないのである」(時枝誠記「国語学原論」)
 どういう概念にどういうかたち(語)を使うかは、社会的な約束として成立している。 辞書はこの約束を教えてくれるものである。
 言語の「意味」というときには二つの場合がある。一つは、話され書かれた個々の言語の持っている「意味」で、いま一つは辞書の教えてくれる表現上の社会的な約束としての「意味」である。辞書の意味を「意義」と呼ぶとする。
 同じ種類の音声でも、A氏の「犬」とB氏の「犬」とは対象もちがい表現もちがっている。ただA氏もB氏も同じ社会的な約束の上に立って「犬」という音声を創造したのだから、この二つの音声にはこの意味での共通点があり、辞書はこれらの音声を理解するための指針になる。辞書の教えてくれる「意義」は、これらの音声の特殊な「意味」をつらぬいて存在する普遍的なものとして扱われるのである。


4 言語道具説はどこがまちがっているか
【要約】   
 多くの言語学者は、言語表現のための社会的な約束の認識そのものを言語の本体であるかのように考えている。
 「言語は一定の音声に一定の意味が結合したもので、思想(及び感情)を他人に伝える為に用いられるものである。・・・話し手及び聞き手の心の中に一様に存する言語表象(一定の音声表象に一定の事物表象が結合したもの)は、言語の中心または本体をなすものであって、これによって発表と理会の作用が行われ、言語が思想伝達の目的を達するのである。そうして、思想を通ずる為に行う発表理会の作用は、その時その時に完成せられ、その場かぎりのものであるに反して、言語表象は、その言語を用いる人の心の中に永く存して、いつなりとも必要に応じて同じ言語を使用する事を可能ならしめるものである」(橋本進吉「国語研究法」)
 ここで云われている「言語表象」とは、すでに行われた言語表現から社会的な約束を反省したものであり、「同じ言語を使用する」とは、同じ種類あるいは文字を使用することに他ならない。スターリンの言語観もこれと同じであった。
「言語は手段であり用具であって、人々はこれによって、たがいに交通し、思想を交換し、相互の理解に達するのである。言語は思惟と直接に結びつき、人間の思惟活動の結果や認識活動の成果を単語や文中の単語の組み合わせのうちに記録し定着させ、このようにして、人間社会における思想の交換を可能にする」「言語はどんな土台や上部構造とも比較にならぬくらい長生きする」(スターリン・「言語学におけるマルクス主義について」)
 個々の言語は、特定の話し手の表現として存在するが、橋本氏やスターリンのように社会的な約束そのものを言語と考えると、言語から話し手のもつ特殊性が追い出されてしまうのである。言語あるいは言語の材料と見られるものが話し手の思想とは別個に存在し、話し手はこの「言語」を思想伝達の道具として使うという結論がでてくる。これを《言語道具説》という。
母親が幼い子どもに対して「これは、ネコよ、いってごらんなさい、ネ、コ・・・」と話しかけるのは、言語表現を教えているのである。この母親の言語表現は、幼い子どもに
対象と表現とのつながりを示す。この具体的な言語から、幼い子どもは社会的な約束を認識する。子どもは、生活の中で、ほかの人たちの言語に接したり、絵本の文字を読んだりして、このとき指された一個の対象だけでなく、同じ種類の動物でありさえすれば同じかたちを使って表現するということを会得していく。自分の寝起きする家を「オウチ」と教えられた子どもは、犬の寝起きするビールの空き箱をも同じ種類の対象と判断して同じかたちを使い「ワンワンのオウチ」と表現する。
 個々の具体的な言語が持っている対象→認識→表現の具体的なつながりの中には、社会的な約束に基づいた普遍的なつながりがふくまれており、すでに行われた言語からこのつながりを抽象して認識し、それを「道具」として今後の言語表現に役立たせるのがいわゆる「言語の習得」にほかならない。この社会的な約束の認識は、表現のためのかたちを社会的な約束として定めなければならないという言語の特殊な性格に基づいてうまれたものだから、それ自体社会的な性格を持っていて、社会的な条件の変化によって変化する。あり一定の集団の中でしか理解できないような「隠語」、社会の身分・階級制度から敬意を表現するための社会的な約束に基づく「敬語」は、言語としての本質を失ってはいない。
 この社会的な約束の認識は、個人の頭脳において存在するから、その意味では社会的であると同時にまた個人的な存在でもある。
 言語道具説は、頭の中にある「言語」あるいは「言語材料」そのものを、カタにはめ組み合わせることによって表現が行われると主張する。
 「個人の自由はただ(a)語の選び方と、(b)かく選ばれた語を文の図式へとはめこむこと(これをコトバのカタハメと名づける)のうちにしか、ない。語も文の図式も、それ自体としては、心理的に見れば、潜在的なものである。それらは、言語の行使を待機するところの可能態として、われわれ個人の頭の中に存在する。カタハメ作用は、それらの潜在物の、現実界への呼び起こしにほかならない」(小林英夫「言語学通論」) 


●言語活動(モノヲユー) ■可能態=ゲンゴー潜在的(語、文の図式)・・社会的所産 ■実現=カタハメー呼び起こし(個人意思)・・個人的所産
=ハツワ ー精神・物理的機構・・・・・個人的所産
「この三つの様相のうち、言語活動にとって、もっとも本質的なものは、カタハメである。その理由は、第一に、言語はすでにできあがっているものであり、活動の材料でこそあれ、活動そのものの本体をなすものではないからであり、第二に、ハツワは、通達機能の技術的部面であって、これは文字のような筆写手段によって置き換えることも、できなくはないからである」(同上) 


 「語彙構成があるだけではまだ言語にはならない。それはむしろ言語の建築材料である。建築材料なしに建物をたてることはできないが、建築材料は建物ではないのと同じように、言語の語彙構成も、それをはなれては言語も考えられないとはいえ、言語そのものではない。だが、言語の語彙構成は、その言語の文法によって支配されるようになると、最大の意義をもつようになる。文法は、単語の変化の規則や、単語を組み合わせて文を構成する規則を規定し、このようにして、調和のある、意味をになった性格を言語に与える」(スターリン・「言語学におけるマルクス主義について」)


 これらの、頭の中に「言語」や「言語材料」があるとする主張では、話し手、書き手の認識の対象が理論的に切り捨てられている。具体的な対象から与えられた具体的な認識と、いわゆる「言語の材料」とがどのように結びつきどのようにして表現が行われるのか、どのようにして頭の中にあたらしい「言語の材料」がつくりだされてくるのかをくわしく説明していない。
 聾唖者は、音声言語の社会的な約束を自分のものにすることができないが、目は見えるから、文字言語あるいは身振り言語の社会的な約束は習得できる。従って、聾唖者も言語表現を行っており、特殊な身振り言語も言語学の対象になる。
 スターリンは、聾唖者を「言語をつかわない異常な人間」と考え、言語学は聾唖者を取り扱わないと主張したのは、言語の本質を機能に求め、表現としての本質的な性格をとらえなかったことから導かれたあやまりである。


【感想】
 ここで著者は、《辞書の中には言語がある》、《言語は思想(及び感情)を他人に伝えるための道具である》という考え方を「誤りである」と批判している。その根拠は「話し手、聞き手の認識の対象が理論的に切り捨てられている」「具体的な対象から与えられた具体的な認識と、いわゆる《言語の材料》がどのようにむすびつきどのようにして表現が行われているのか、どのようにして頭の中にあたらしい《言語の材料》がつくりだされてくるのかをくわしく説明していない」からだと述べている。
 そのことを私なりに考えると、《言語の材料》とは、辞書の中にある「単語(文字)」であり、「犬」という単語を例に取ると、それは犬という概念を表しているに過ぎないのであって、今、目の前にいる犬を具体的に描出することはできないということであろう。「犬」が表せるのは、それは生物であり、動物であり、哺乳類であり、家畜であり、ネコやニワトリではない、という程度であり、その顔かたち、色、大きさなどは表すことができない。それが辞書の中にある言語の意味である。また「利口」という言葉は、バカではないという意味だが、話し手に「君は利口だ」と言われて喜んではいけない。その意味通りに話し手が使っているとは限らないからである。もし言語が道具であるなら「利口」という言葉を、その反対の意味に使うことはできない。著者はそのあたりを「具体的な対象から与えられた具体的な認識と、いわゆる《言語の材料》がどのようにむすびつきどのようにして表現が行われているのか」説明していないと批判しているのだと思う。
 私は中学時代、教師から「言葉とは何か」と問われ「自分の考えや気持ちを相手に伝える道具です」と答えた記憶がある。その評価の是非は失念したが、いずれにせよ「言語道具説」は中学生程度の認識に基づいたものであることが、よくわかった。