梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・1

第一部
第一章 絵画・映画・言語のありかたを比べてみる
1 絵画と言語との共通点
【要約】(注・原文は敬体文)
・言語も絵画も、人間の認識を見たり聞いたりできるような感覚的なかたちを創造して、それによって相手に訴えるという点で(作者の表現であるという点で)共通な性格をもっている。
・絵画や写真は、客体的表現(描かれた風景や静物など)と主体的表現(作者の位置、視点、感情など)という二つの表現のきりはなすことのできない統一体として考えるべきものである。
◎では、言語ではこの二種類(客体的表現、主体的表現)の表現はどういうかたちをとってあらわれるか?どう結びついていくか?これが第一の問題である。
・同じ家を絵で表現するのに、写生的な立場と、地図的な立場があり、同じ星を絵画で表現するのにも写生的な立場と地図的な立場があるように、家のありかたや星のありかたを言語で表現するときも、写生的な立場と地図的な立場があるはずである。
◎では、言語ではこのような立場のちがいがどういうかたちをとってあらわれるか、どう結びつけていくか?これが第二の問題である。
・「目から火が出る」ときに、漫画では(ボールがクリちゃんの顔に当たり、おでこの周辺から火花が飛び散っている)ように表現する。そこで描かれた火花は、全く主観的なもので、人間の観念の側でつくりだされたかたちである。この漫画の作者は、この人物を客体としてとらえてボールがぶつかるありさまを描いただけでなく、さらにこの人物自身の立場に移行して、この人物の主観である「目から火が出る」ありさまをも画面に描いているわけである。ここに、二つの立場がある。この人物を客体としてとらえる立場と、この人物自身の立場と、立場が二重になっている。二つの立場の二つの表現が一つの画面に重なり合っている。
・ラジオドラマや映画でも、現実の世界の会話や音響と、伴奏音楽が重なり合うというかたちをとっている。伴奏音楽そのものはドラマの中の現実の世界で演奏されているのではない。喜劇映画「アラスカ珍道中」では、野外のラブシーンで、ボップ・ホープが彼女を抱くと、あまい伴奏音楽がはじまる。とたんにびっくりした彼は、「どこで音楽なんかやっているんだ」という顔つきでキョロキョロあたりを見まわす。観客はその予想外に滑稽感をる。
◎同じ画面や同じ音楽でありながら、現実の世界で使われる場合とその外で使われる場合を区別しなければならないという事実は、言語の理解にあたっても重要な示唆をあたえる。これが第三の問題である。
⑴ 彼は実に男(らしい)。
⑵ 暗くてよくわからないが男(らしい)。
 ⑴の場合は、この言葉の語り手がとらえた相手のありかたである。現実の世界の「中」のことである。⑵の場合は、語り手の主観に存在するものを表現しているので、語り手の推量そのものを直接に示す語として扱わなければならない。推量そのものは現実の世界の「外」に主観的なものとしてうまれているのである。これは⑴の「らしい」と本質的に違った性質の表現である。文法では、⑴を「接尾語」、⑵を「推量の助動詞」として区別しているが、単に区別するだけでなく、そこに本質的なちがいのあることをみとめることが必要である。ある種の表現が形式を変えることなしにそれと対立した性格の表現に移行するものとして理解しなければならない。
⑴ 本が(ある)。
⑵ 本で(ある)。
 ⑴の「ある」は、有の意味で、これを動詞として扱う。山田孝雄氏は。これを形式用言と呼んで、普通の動詞から区別した。その理由は、この語がきわめて抽象的で、単に存在することを述べるにすぎないし、また⑵のような表現さえ行われている、というところにある。たしかにこの語は抽象的だが、抽象の程度いかんは語の分類の規準にはなり得ないし、また⑴と⑵を同視することも不当である。「ある」そのものを特殊な語として考えるのではなく、⑴は語り手がとらえた相手のありかたの表現だから動詞として扱うのが当然で、⑵はこの言語の語り手の主観に存在するものの表現であり、語り手の判断そのものを直接に示す語だから助動詞として扱わなければならない。「ある」は動詞の場合と助動詞の場合とがある、と区別するのが正しい文法的な説明である。
 カヤの中で眠っているクリちゃんが、カヤの外に出ようとしている夢を見ている漫画が描かれている。この漫画は、二つの世界から構成されている。クリちゃんが眠っている世界と、クリちゃんがカヤから出ようとしている夢の世界との二つである。世界が現実の世界と観念的な世界とに二重化している。人間が見る夢は、寝どこの中で見る夢だけではない。人間は生活しながらたえず夢を見る。将来の計画を立て、未来のありかたを想像するのは、まだ現実に存在していないという意味で、すべて「夢」のうちに入れることができる。わたしたちは「夢」を語り合っている。言語の大部分は「夢」を扱っている。時には、夢の中でまた夢を見ることもある。「タカラくじが当たったら何を買おうか」というかたちで「夢」のなかに身をおいてまた「夢」を見ることがある。二重化した世界の一つである観念的な世界が、その観念的な世界を現実としての観念的な世界というかたちで、さらに二重化するのである。
◎その夢を扱った(クリちゃんの漫画に描かれたような)性格を正しく分析できなければ、「夢」を扱った言語の構造を正しく理解することはできない。これが第四の問題である。
2 モンタージュ論は何を主張したか(略)


【感想】
 この著書は「国語学言論」(時枝誠記)が刊行されてから30年後、1971年に発刊されている。著者は言語学の独学者であり、時枝誠記の「言語過程説」を批判的に継承しているといわれている点で、興味を惹かれ読み始めた。
 著者はこの章で、言語のありかたを絵画、映画とくらべながら、以下の四つの問題を提起している。
1 言語による客体的表現、主体的表現はどういうかたちをとってあらわれるか?どう結びついていくか?
2 言語では、主体(語り手)の立場(視点)の違いがどういうかたちをとってあらわれるか、どう結びつけていくか?
3 言語の理解にあたって、そこで表現された現実の世界と観念の世界をどのように区別するか。
4 言語の理解にあたって、そこで表現された現実の世界と観念の世界をどのように分析するか。 
 著者は「本がある」「本である」という文の「ある」は前者が動詞、後者は助動詞と区別しているが、時枝誠記が前者を客体的な表現である「詞」、後者を主体的な表現である「辞」と区別する観点と同じであり、その点では時枝文法をたしかに継承しているということがわかった。
 著者は次節で「モンタージュ論」について触れているが、時枝誠記の「言語過程説」をどのように批判しているかの方が興味深いので、省略して先を読むことにする。
(2017.12.30)