梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・71《完》

(三)滑稽美
 懸詞による旋律美、協和美の観察は、もっぱら美の形式に関することであった。 音声Sを媒介として喚起される概念をA、Bとする時、AとBの対比は、懸詞の美の質的価値を決定する基準となる。AとBとの対比を、角(ASB)によって表す時、角(ASB)は、極小から極大まで様々なものを見出すことができるだろう。「花を見る」「月を見る」の「見る」は、動作の対象を異にしているだけだから、角(ASB)は極めて小である。「眺め」と「長雨」は、事実そのものについいえば対比は大であるが、感情的内容についていえば、両者には相通じるものがあって、角(ASB)は必ずしも大とはいえない。「ハル」という音声を媒介とする「春」「張る」の対比は、事実のみについていえば小とはいえないが、これを、
● 霞たちこのめも(はる)の雪ふれば(「古今集」)
● 我せこが衣(はる)さめふるごとに(同上)
 のように展開するならば、ABの懸隔は解消されてくることになる。展開された二つの想の間に感情的に見て共通のものを見いだせるのである。一般に、懸詞の秀れた技巧は、二つの概念の極めて目立たぬ自然の展開対比にあると思う。
● 山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草も(かれ)ぬと思へば(「古今集」)
 における「かる」という語は、今日考えられている「離る」「枯る」の対比以上に小であって、「水かる」「声かる」と使われるように、物の量の減少していくことを意味する。もしそうなら、この懸詞は僅少の対比によって使われたものということができる。
● 結手の滴ににごる山の井の(あか)でも人に別れぬるかな(「古今集」)
 感覚的飽満と感情的満足の対比である。このような極小の対比が進んで、ABの比が大になる時、しばしばそこに滑稽感が現れてくる。それは、歌そのものの内容として含まれている素材によることではなく、音声Sを媒介とする二重過程ABが意想外の展開であると考えられるところに滑稽感が生じる。
● 山吹の花色衣ぬしやたれとへどこたへず(くちなし)にして(「古今集」)  この歌に滑稽感が感じられるのは「くちなし」を媒介とする「梔子」と「口無し」との対比が意表に出るためである。概念の対比が大であり、それが一首に総合統一され、主想と伴想とが巧みに織りなされているところにこの歌の滑稽的技巧があるといえるだろう。
● あきくればのべにたはるる女郎花いづれの人か(つま)で見るべき(「古今集」)
 「摘む」「抓む」の対比による展開であり、花の鑑賞を述べた主想に対して、官能的な伴想を対位させたところに頤を解くものがある。これを、
● あひみずばこひしき事もなからまし(おと)にぞ人をきくばかりける(「古今集」)  と比べれば、これが「おと」の二重過程(感覚的音と噂)を成立させているのに対して、滑稽的技法がどのようなものであるかがわかるだろう。
● あひみまく(ほし)はかずなく有りながら人に(つき)なみまどひこそすれ(「古今集」)
 主想、伴想ともに素材として、滑稽的なものを含んでいるわけではない。ただ伴想を主想の中に巧みに懸詞として織り込んだ機智が滑稽感の機縁となっている。特に、「ほし」と「つき」との対比はこの一首を俳諧歌に入れた根拠になったものだろう。
● 今こむといひて別れる朝よりおも(ひくらし)のねをのみぞなく(「古今集」)
 素材としては哀愁を詠んだにもかかわらず、迫るところがないのは、懸詞による概念の対比があまりに大きすぎたためである。そこには、懸詞の必然の分裂というよりは、故意に対立させた跡が見える。従って、むしろそれは俳諧歌に近い。拾遺集がこれを物名に入れたのは当然である。
● 紅に染し心もたのまれず人を(あく)にはうつるてふなり(「古今集」)
 「あく」は「秋」「飽き」の分裂によって懸詞となるのが一般的技巧である。その場合、二つの概念は、凋落の感情に共通性があり、懸詞としての展開に自然性がある。今ここに「飽く」と「灰汁」とを対立させることによって、その対比は増大し、滑稽的要素を多分に持つこととなるのである。
 滑稽的技巧は、喚起された概念の対比の上にあるというべきである。従って、それら概念がどのような内容のものであるかを明らかにすることは、懸詞による表現美の質的価値判断の前提となるべきものであると思う。
 懸詞の成立は、国語の構造的特質に深く根ざしたものである。その論理的脈絡を遮断して、観念の直感的照応を求めようとする精神そのものは、懸詞が類型的となると同時に、 連歌俳諧の中に、いわゆる響合といわれる新しい形で生かされていったと見るべきではないだろうか。


【感想】
 ここでは懸詞の「滑稽美」について述べられている。ある一つの音声Sによって二つ野概念ABが喚起される場合、懸詞が成立するが著者はその状態を、角(ASB)という図で説明しようとする。その角の大きさが「大」であるということは、喚起されたAとBが懸け離れていて、「意外だ、しかしもっともだ」と感じられる時、滑稽美が生まれるということであろう。著者が例示した《山吹の花色衣ぬしやたれとへどこたへず(くちなし)にして(「古今集」)》という一首は「あの山吹色の衣を着ているのは誰かと問いかけたが答えなかった。それもそのはずその衣は梔子の実で染められていたのだから」というほどの意味だと思われるが、梔子の実から「口無し」が連想され、なるほど口がなければ答えられないだろうという滑稽さが伝わってくる。同様に、《あきくればのべにたはるる女郎花いづれの人か(つま)で見るべき(「古今集」)》では「花を摘む」と「相手を抓む(つねる)」が重なっており、人によっては「あき」を厭き、「つま」を「妻」と見る向きもあるようである。著者にとっては「頤を解く」(大笑いする)ほどの滑稽さなのだから、当然、私にも伝わってくるはずだが「今一歩」通じなかった。それが私自身の感性の鈍さ、無教養、浅学非才のためであることは、いうまでもない。
 「滑稽的技巧は、喚起された概念の対比の上にあるというべきである。従って、それら概念がどのような内容のものであるかを明らかにすることは、懸詞による表現美の質的価値判断の前提となるべきものであると思う」と著者は言い、最後に「懸詞の成立は、国語の構造的特質に深く根ざしたものである。その論理的脈絡を遮断して、観念の直感的照応を求めようとする精神そのものは、懸詞が類型的となると同時に、連歌俳諧の中に、いわゆる響合といわれる新しい形で生かされていったと見るべきではないだろうか」と結んでいるが、懸詞による旋律美、協和美、滑稽美の数々は、現代までにも引き継がれて、歌舞音曲の舞台、文学の世界に踏襲されていることがわかった。