梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・70

(二)協和美
● 獨ぬる床は草葉にあらねども秋くるよひは(つゆけかり)けり(「古今集」)
 「つゆけかり」という語は、一方に心の憂愁を意味すると同時に、上句の比喩を機縁として文字通り「露けかり」の想を伴い、両方が響き合って、一つの複雑な観念を表出する。二つの想が相対立し、相糾錯するところにこの歌の美を見出すことができるだろうと思う。
懸詞による二想は、ここでは旋律的流動を示さず、対位的諧調を示している。「つゆけし」という語は、例えば、
● ただ涙にひぢて、明し暮させ給へば、見奉る人さへ(つゆけき)秋なり(「源氏物語・桐壺」)
● 若宮のいと覚束なく、(つゆけき)中に過し給ふも、心苦しう思さるるを(同上)
 等においては、「つゆけし」は心の哀愁を比喩的に表現したので、事物の屈折的概念把握としては考えられるが、懸詞の二重言語過程を認めることはできない。旋律的展開においては、懸詞は一方包摂する機能を持つと同時に、他方では包摂される立場に立つが、協和的排列においては、伴想は主想に対して平行的に思想の色づけをするという特色を持っている。それはちょうど縄を糾うような有様である。
● 君により我名は花に春霞野にも山にも(たちみち)にけり(「古今集」)
 これを分析すれば、
君により我名は・・・・・・・・(たちみち)にけり
  花に春霞野にも山にも・・・・・(たちみち)にけり
 「たちみち」は、「我名」を包摂すると同時に、また「野にも山にも」を包摂するので、この懸詞は協和的美を構成する契機となっているということができるのである。
● 時すぎて(かれゆく)をののあさぢには今は(おもひ)ぞたえず(もえ)ける(「古今集」)
● みなせ川ありて行水なくばこそつひに我が(みをたえ)ぬとおもはめ(同上)
● (うきめ)のみおひて(ながるる)浦なれば(かり)にのみこそあまはよるらめ(同上)
● もろともに(なき)てとどめよきりぎりす秋の別はをしくやはあらぬ(同上)
 「なき」は「鳴き」であると同時に「泣き」の意味も喚起する。作者は意識してこれを懸詞として使用していることは明らかである。
● あけたてば蝉のおりはへ(なきくらし)よるは蛍の(もえ)こそわたれ(「古今集」)
 「蝉(の)なきくらし」「蛍(の)もえこそ渡れ」は、文法的に一般の主述関係においては許されない語法である。従って、「なきくらし」はその主語を転換する必要に迫られ、それは論理的意味脈絡の遮断であると同時に、「なきくらし」「もえ」が、懸詞として生きる道を与えられたことになるのである。それは「梓弓はる(の)山辺」における「の」が、下の語に続くためには、上の語との関係が文法的に見て破格の承接であることによって、「はる」が「張る」より「春」への二重過程の契機となることができたのと同じである。
● さと人のことはなつのの(しげく)とも(かれゆく)君にあはざらめやは(「古今集」)
● 思ひいでてこひしき時ははつかりの(なきてわたる)と人しるらめや(同上)
● はつかりの(なきこそ渡れ)世の中の人の心の(あき)しうければ(同上))
 上の三首における「の」は、文法的に見て正しい用法だが、懸詞の上あるいは下にある語によって、懸詞に二義が分裂し、協和美を構成する例である。
【感想】
 ここでは、懸詞による「協和美」について述べている。「協和美」とは音楽の和音のようなものだと思われるが、著者は「旋律的展開においては、懸詞は一方包摂する機能を持つと同時に、他方では包摂される立場に立つが、協和的排列においては、伴想は主想に対して平行的に思想の色づけをするという特色を持っている。それはちょうど縄を糾うような有様である」と言い、具体的に《君により我名は花に春霞野にも山にも(たちみち)にけり(「古今集」)》という一首を例示して説明する。この歌の意味は、「あなたのせいで私の名(浮名、恋の噂)はいっぱいに広がってしまった。花にかかる春霞が野にも山にも広がるように」であろうか。この「たちみちにけり」(広がってしまった)の主語は「我名」であり、また同時に「春霞」である。自分の恋の噂が広がるという気持ちと、春霞が野山に広がるという情景が、二重写しとなって描出されている。そのことを「協和美」というのだろう。《時すぎて(かれゆく)をののあさぢには今は(おもひ)ぞたえず(もえ)ける》では、枯れ野を焼く火が燃える情景と、自分の恋が終わってもまだ心は燃えている
という心情が二重写しになっている。《みなせ川ありて行水なくばこそつひに我が(みをたえ)ぬとおもはめ》では、「我が身を耐えぬ」と「水脈が絶える」というダブルイメージが平行している。
 なるほど、「協和的排列においては、伴想は主想に対して平行的に思想の色づけをするという特色を持っている」という著者の説明が《少しだけ》わかったような気がする。
(2017.12.22)