梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・65

二 語の美的表現
 語は以下のような過程的構造形式を持っている。
《起点》(具体的事物、事象)
 ↓
《第一次過程》(概念)
 ↓
《第二次過程》(聴覚映像))
 ↓
《第三次過程》(音声)
 ↓
《第四次過程》(文字))
従って、語の美的表現ということは、上の過程的構造の美的構成を意味する。語の美的表現に必要な構造形式を、四つに分類して考察する。
(一)直線型
a(具体的事物、事象)→b(概念的把握)→c(音声的表出)→d(文字的記載)
 具体的な一本の桜を、「桜」と概念し、「サクラ」と音声表出し、「さくら」あるいは「桜」と文字記載するような過程である。この形式は直線的であり、平明簡素が美の条件となり得れば、この過程も美的形式と認めてよい。
(二)曲線型
a ~(曲線) b → c → d
 例えば、「死ぬ」というべき場合を、「なくなる」「かくれる」と概念して表出する場合である。「なくなる」「かくれる」は、物の見えなくなることだが、このように表出しつつ、「死ぬ」事実を表出しようと意図するところが直線型とは異なる。曲線型は、表出される素材を、それが直接に判断される概念よりも広い概念において把握し、しかも当初の事実を表出しようとする。このような表出は、素材的な事物の直接的(露骨)な表出を避けようとしている。このような例は、極めて多く、機微に亘る事実、羞恥を感じるような事実の表現はこの形式をとる。聞き手は「なくなる」「かくれる」がどのような素材的意味を意味するかを明瞭に知悉している場合でも、その理解過程において、その事実とは直接に関係のない概念を通過するので、その語の把握に美を感じることができるのである。それはあたかもゆるやかな弧をえがく橋を渡って行く感じである。霧の中や。霞の奥に堂塔を眺める感じである。山の彼方に波の音を聞く感じである。平安朝でいう「ゆかし」の感じである。例えば、
● 昔光君と聞こえしは・・・御心様も物深く、世の中を思しなだらめし程に、眩からずもて鎮め給ひ、遂にさるいみじき世の(乱れ)も出で来ぬべかりしをも、事なく過ごし給ひて(「源氏物語」・匂宮)
● かく思はずなる事の(乱れ)に、必ず憂しと思しなる節ありけむ(同上)
 前者の「世の乱れ」は、世の紛糾をいったものだが、後者の「事の乱れ」は、単なる事の紛糾ではなく、もっと限定された男女間の経緯、あるいは情事を暗示したものである。それを漠然と「事の乱れ」といったところに概念的把握の特異な方法を見ることができるのである。
● ゆかしげなき(乱れ)なからむや、誰が為も心にくく、目易かるべき事ならむとなむ思ふ(「源氏物語」・横笛)
● 何の(乱れ)かあらむ(同上)
 上の「乱れ」は、ともに素材的事実としては。浮気沙汰不行跡を指すのだろうが、曲線型の表現過程によって美化されているのである。
 「参る」という語が、種々の行為を示す語に代用されているのは、この語が特殊な事実を一般化して表す曲線型の表現だからである。
● 御格子ども皆(参りて)侍るべし。女房のけはひなどし侍りつつ(「源氏物語・宿木)● 暮れゆくままに・・・いとむくつけければ、御格子など(参り)ぬるに(「源氏物語・野分)
 前者は格子を上げ、後者は下ろすことをいったものである。なお、実名敬避の手段としてこの方法が用いられることがある。(穂積陳重「実名敬避俗研究」)
 曲線型の特異な例として、素材的事実を概念的に把握する際に、これを素材を志向する感情に移行して、感情概念として把握する方法がある。対象の性質を直指せず、感情で示すことは、印象を漠然と表すことであり、一つの曲線型というべきである。
● かく(恥ずかしき)人参り給ふを、御心遣ひして見え奉らせ給へ(「源氏物語・絵合)● いと(恥ずかしき)御有様に、便なき事聞し召しつけられじと(「源氏物語・澪標) 「人」「御有様」の属性は、立派とか端麗とかいうべきものだろうが、これを「恥ずかしき」という感情概念で把握することによって露骨になることを避けたのである。
● 程なき御身にさる(おそろしき)ことをし給へば(「源氏物語・若菜上)
 明石上の若年にして妊娠分娩したことを述べたのである。
● (珍らしき)事さへ添ひて、いかに心許なく思さるらむ(同上)
 上と同様な事実を「珍らしき」といったのだが、「おそろしき」や「珍らしき」という語に、妊娠分娩という意味があるわけではない。素材に対する感情によって素材を暗示しようとしたのである。
 このように見てくると、語の美的形式とは、要するに素材に対する意味作用として対象を直接的に把握するか、志向作用として間接的に把握するかに帰するというべきである。 以上のような言語過程は、次第に直線型に移行する傾向があり、美的意識はたえず新しい効果の多い曲線型を創造することを余儀なくされる。「貴様」「拙者」が現今ほとんど曲線型を失い、「雪隠」が今日直線的に素材を表すに至って美的効果を減殺し、「台所」とより「勝手」がより美しく感じられるのは、この語が「台所」そのものを直指せずに、家計一般を意味する広義の概念であるためだろう。
 「いろ」(色)は元来「仮なる」「空なる」「あだなる」ことを概括していったのだろうが、それが男女の情事または情人を直指するに至っては、曲線型から除外されなければならなくなる。こうして次々に新しい曲線型が創作され、「男」といい「女」といっても、ある場合には曲線型の効果を失って、しばしば情夫、情婦を直指して直線型に移行してしまうのである。
【感想】
 ここでは、「語の美的表現」について述べられている。「語」は、具体的事物あるいは事象を起点として、それを概念化し(第一次過程)、聴覚映像化し(第二次過程)、音声化し(第三次過程)、文字化(第四次過程)して成立する。
著者が「語の美的表現」として注目するのは、上の起点(具体的事物あるいは事象)から概念化(第一次過程)に至るプロセスである。具体的事物あるいは事象を、そのまま直指して概念化すれば、直線型となる。それでも平明簡素な美の条件となり得るが、さらに具体的事物あるいは事象を直指せずに、他の概念で表す場合がある。その一つに曲線型がある。著者によれば、それは「ゆるやかな弧を描く橋を渡って行く感じ」であり「霧の中や、霞の奥に堂塔を眺める感じ」であり、「山の彼方に波の音を聞く感じ」だということである。著者にしては珍しく「比喩的説明」であり、その感じをすぐさま実感できるわけではないが、要するに、曲線型とは具体的事物や事象を直接的に概念化するのではなく、より広い概念で、あるいは別の概念で表そうとすることであうことは、よくわかった。
 具体的には「死ぬ」を「なくなる」「かくれる」といい、男女間の経緯、情事を「乱れ」といい、格子の上げ下げに「参る」という語を使い、立派、端麗を「恥かしき」といい、妊娠分娩を「おそろしき」「珍らしき」などという例が、「源氏物語」の中から示されており、たいへん参考になった。
 また、曲線型は広く親しまれることによって直線型に移行してしまう。かつては曲線型であった「貴様」、「拙者」、「雪隠」等は、今日では直線的に素材を表すようになり美的効果を減滅させている、「いろ」(色)も「男女の情事または情人を直指するに至っては、曲線型から除外しなければならなくなる」、「男」「女」も「しばしば情夫、情婦を直指して直線型に移行してしまうのである」といった指摘が、たいそう「直線型」的で、おもしろかった。(2017.12.13)