梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

新釈・男と女の物語・《「夕鶴」(木下順二)》

第二話 
民話・鶴女房を現代劇に脚色した「夕鶴」(木下順二)には、「不可解感」「錯覚」に囚われた男・与ひょうが登場する。「ばかはばかなりに、昔はたいそう働きもんだった」与ひょうのところへ、「いつだったか、晩げに寝ようとしとったらはいってきて、女房にしてくれ」という女がいた。つうという名である。つうは、以後、与ひょうの身の回りの世話をするばかりか、「鶴の千羽織」という布を、与ひょうにプレゼントした。それは、生きている鶴の羽を千本抜いて織り上げた織物だという。村人・運ずは、それを町に持っていき金に換え、うわまえをはねている。「お陰で与ひょうは懐手で大金儲け」、「近ごろは、炉ばたで寝てばかりいる」身分となった。
いうまでもなく、つうは「人間 」ではなかった。与ひょうは村人・惣どに尋ねられ、「はあ?鶴か? うん、鶴なら、いつだったかおらが畠打っとたら、くろに鶴が下りて来てよ、矢を負うて苦しんどったけに、抜いてやったことがあるわ。」と答えている。つうは鶴の化身であり、与ひょうへの恩返しにやってきたのだ。
欲におぼれた「人間」たちが、そのことを見逃すはずはない。村人・惣ど、運ずは、与ひょうを焚きつけて、「鶴の千羽織」を、つうに織らせようとする。
 化身であるなどとはつゆ知らず、与ひょうは、つうを愛していた。これまで運ずにいわれ「千羽織」を何度か織らせていたが、そのたびに、「つうがぐんと痩せる」ことに気づいていた。与ひょうは「つうがいとしゅうて」ならなかった。つうからも「あの布は、もうおしまい」と約束させられていた。だから、惣ど、運ずの申し出を断った。しかし、彼らは「大金儲け」「何百両」「都見物」等という言葉をちらつかせて執拗に迫る。「近頃ァ大ぶん欲がついて来て、金のことなら結構話が分かる」ようになっていた与ひょうは、遂に、誘惑に負けた。「よしよし、わりゃ感心なやっちゃ」と惣どにおだてられ、つうとの「愁嘆場」を演じる羽目になっていく。
 つうも、また、与ひょうを愛していた。村の子供たちと遊びながら、与ひょうの近頃の様子に戸惑い、ひとりごちする。「与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変わっていく。何だか分からないけれど、あたしとは別の世界の人になっていってしまう。(略)・・・あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとうに嬉しかったから、あたしはあんたのところにきたのよ。そして、あの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それを、あんたは、そのたびに「おかね」っていうものと取りかえてきたのね。それでもいいの、あたしは。あんたが「おかね」が好きなのなら。だから、その好きな「おかね」がもうたくさんあるのだから、あとはあんたと二人きりで、この小さなうちの中で静かに楽しく暮らしたいのよ。あんたは、ほかの人とは違う人、あたしの世界の人。だから、この広い野原のまん中で、そっと二人だけの世界をつくって、畠を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きていくつもりだったのに・・・だのに、何だか、あんたはあたしから離れていく。だんだん遠くなっていく。どうしたらいいの?ほんとにあたしはどうしたらいいの?・・・・」(「夕鶴」・木下順二・新潮文庫・136~137頁) 
 しかし、与ひょうは、その問いかけに応えることはできなかった。
村人・惣ど、運ずに焚きつけられて家に入った与ひょうは、夕餉の席で元気がない。布の話を持ち出せば、つうは怒るだろう。でも、あきらめきれない。もし、布を織らせることができれば、村人にも「一人前」として認めてもらえるのだ。与ひょうの煮え切らない様子に、思いあまって、つうは本音で問いただす。「そんなにほしいの? そんなに行きたいの? そんなに・・・あたしよりもお金が好きなの? 都が好きなの? え?」
与ひょうも、窮して、本音で応えた。
「そげに・・・つうのようにいうなら好かん」「好かん好かん。おらつうが好かん。つうの意地わる」「布を織れ。都さ行くだ。金儲けてくるだ」「布を織れ。織らんと、おら、出ていってしまう」
あげくのはてに、与ひょうは、つうには通じない言葉を使い始めた。「布を織れ。すぐ織れ。今度は前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうだ、何百両だでよう。」
 つうは、驚愕し狼狽した。「与ひょうは、もう『自分を必要と感じていない』のではないか」恐慌状態のまま、庭をさまよい、雪の中に倒れ込む。
 気がつくと、あのやさしかった与ひょうが、そばにいた。「おい・・・どうしただ? つう・・・」 そう言って強く抱きしめてくれたのだ。
つうに一筋の光が見えた。<私の大事な与ひょうは、まだ、ここにいる。もう与ひょうを自分の世界に戻すことはできないにしても、私は与ひょうが必要だ。今のままでいい。与ひょうが、そばにいてくれるだけでいい。もう一枚だけ、あの布を織ってあげよう。> つうは決心し、眠っている与ひょうに語りかけた。
「・・・もう一度だけ、もう一枚だけあの布を織ってあげるわ。それで、それでゆるしてね。だって、もうそれを越したらあたしは死んでしまうかもしれないもの。・・・その布を持ってあんた、都へ行っておいで。・・・そしてたくさんお金を持ってお帰り。・・・帰るのよ。帰ってくるのよ。きっと、きっと帰ってくるのよ。そして今度こそあたしと二人きりで、いつまでもいつまでもいっしょに暮らすのよ。ね。ね。・・・」(前出書・148頁)
つうは、与ひょうを揺り起こし、布を織ることを告げる。望みが叶って、有頂天に舞い上がった与ひょうとの、いつもの約束を交わしながら、つうは、一抹の不安を感じたのだろうか。その約束を、何度も確認した。
 「じゃ、一つだけ、いつもの約束。機を織っているとこを決してのぞいて見ないこと。ね? きっとよ・・・」「ね、お願いよ。これだけは固く固く、決してのぞき見しないしないこと。・・・もしのぞいたら、それであたしたちの間はおしまいよ。」「・・・きっとよ。・・・きっと見ないでよ。・・・」(前出書・150頁)
 にもかかわらず、この約束は守られなかった。二人の「恋」は成就しなかったのである。
その原因は何だろうか。
私見によれば、それは、男の単純な「不可解感」・「錯覚」である。村人・惣ど、運ずが、機屋の鶴を確認し、中に「鶴がおる」と運ずから聞かされた後でも、与ひょうは、つうとの約束を忘れてはいなかった。
 「はあ? 鶴だ? 鶴がおるんかな? この中に・・・。はあ、見たいのう。いんね、いかんいかん、つうに怒られる。・・・そんでも、鶴が何しとるだ?・・・はあ、見たいのう・・・。見ちゃいかんかのう? ・・・のう、つうよ・・・のう、ちょっと見るだぞ。・・・いんね、いかんいかん、見ちゃならんとつうがいうただ。」(前出書・152頁) 鶴がいるかもしれないという「不可解感」の中で、与ひょうは逡巡し、自問自答を繰り返しながら、つうにも呼びかけている。
 「のう、つう・・・おい、つうよ。・・・何で返事をせん? ・・・おい、つう、・・・つうよ。はれ、どうしただ? ・・・どうしただ? つう。 ・・・おい。 ・・・はあ、黙っとる。」(前出書152頁)
 与ひょうは、つうに呼びかけたが、返事がない。つうは、なぜ返事をしないのか。なぜ黙っているのか。「錯覚」はその時に生じた。自分の声が、つうに聞こえないはずはない。自分は約束を守って、見ないでいるのに、どうして返事をしてくれないのだろう。おかしい。機屋の中で何か「異変」が起きたにちがいない。つう、どうした? 与ひょうの「不安」は膨れあがった。もし、つうに災いがふりかかっているのなら、「おらは、つうを助けなければならない」。
かくて、「・・・見たいのう・・・おい、ちょっと見るでよ。・・・(ついに見る)はれ?鶴が一羽おるきりだ。・・・つうがおらん・・・(略)」という結果となった。 
 つうは思った。<あんた、とうとう見てしまったのね。あたしのことを心配してくれる気持ちはよくわかる。でも、これまで、あんたは一度だった約束を破ったことはなかった。一晩中待っててくれたじゃないの。もう、おしまい・・・。お別れに、もう一枚、織ってあげるわ。私だと思って大事に、大事にとっておいてね。>
その思いが、与ひょうに通じたかどうか、それは分からない。
木下順二が、みずから「もう一度、あとがき」(前出書・240頁)で書いたように、「夕鶴」は、民話を単なる素材にして創作された、一編の現代劇である。だとすれば、つうは、鶴の化身に姿をかえた、「女」の化身だとも言えなくはない。さればである。現代に、つうのような「女」が存在するだろうか。               
 実を言えば(私自身の低俗な邪推によれば)、つうに「恋」をしたのは、作者・木下順二自身に他ならなかった。「男」が求める「女」とは、「かくありたい」という、作者の願望が、つうのセリフのあちこちには見え隠れしている。「・・・もうどこへもいかないでね。誰ともよその人と話なんかしないでね。ね。」「約束してね? あんたがしろということなら、どんなことでもあたしはする。どんなことでもしてあげる。・・・」「あたしのほかに何がほしいの? いや。いや。あたしのほかに何もほしがっちゃいや。おかねもいや。かうのもいや。あたしだけをかわいがってくれなきゃいや。そしてあんたとあたしとふたりだけで、いつまでもいつまでも生きて行かなきゃいや」はたして、「女」の化身・つうと木下順二の「恋」は成就したのだろうか、それも分からない。
(2006.4.1)