梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・63

第六章 国語美論
一 音声の美的表現
 言語の美は、絵画における美のように視覚的要素の構成の上に成立するものではなく、言語過程といわれる主体的表現行為の上に構成されるものであり、それは身体的運動の変化と調和から知覚される美的快感に類するものである。従って、言語美学の考察は、まず第一に言語の体験、言語の過程的構造の省察からはじめられなければならない。言語の過程的構造を形成する各段階、音声、文字、意味あるいは思想の連合によって成立する各語は、それ自身美的考察の対象になり得るが、同時にそれらは統一体の一部分であって、それ自身の美と同時に、全体との連関から生まれてくる美ということも考慮に入れなければならない。語はそれ自身、美的対象になり得るが、同時に文中の語は、他の語との連関において美的価値が規定されてくる。それ自身いかに美しい語も、場面すなわち聞き手との連関において考察する時、必ずしもそれが調和的でなく美とされない場合がある。
 以下、言語がいかにして美的に形成されるかを、言語過程観の立場に立って、分析的に考察してみようと思う。最初に音声に関する美について述べる。


 国語の基本的リズム形式は、等時的拍音型式だから、音声でこのリズム形式を充填する際に、リズム形式に制約された調音法を用い、このリズム形式を効果的にする調音法と、調音法の連鎖が要求される。その方法は、第一に、各調音法は相互に混濁しないこと、相互に明晰であることが必要である。強弱リズムの形式を波状型とすれば、そこに必要なのは、音声の強弱の対照であり、それによって波状はいっそう際立たされる。しかし、国語はジグザグ型のように各調音の限界が明瞭でなければならない。このことは、国語の音節結合上の美的条件の一つともなり得ると思う。従って「帰る」は「kaeiru」よりも「ka・e・ru」、「出会う」は「deiau」よりも「de・a・u」という風に、音の融合を避けることが正しいとされる。また、調音は母音を伴うことによっていっそう分節が明晰になるから、「するんです」(slundesu)はsu・lu・no・de・suが正いとされる。母音の脱落無声化は一時的便宜的現象であるに過ぎない。以上のような発音上の選択は、国語のリズム形式に制約され、要請された発音発声の理念の結果である。
 次に、リズム形式実現のさらに重要な技巧は、調音の諧調(調子)、対比を求めることである。強弱のリズムを持たない拍音形式の国語では、各調音間の音声的諧調と対比によって、そのリズム形式を生かそうとする。まず、調音の諧調の例として、いわゆる母音調和(注・一語の中に現れる母音の組み合わせに一定の制限が生じる現象)を挙げることができる。母音調和は現今の国語には存在しない。有坂秀世氏の精緻な考証により、古代国語においては語根語幹の中にこの現象があることが明らかにされた。(「古代日本語における音節結合の法則」・有坂秀世氏)
 古代国語の母音は、aou(アオウ)を陽性母音、o(ヲ)を陰性母音、i(イ)を中性母音としてはっきりと対立し、異なった範疇の母音が一語の中に混在しない。母音を同一範疇内で組み合わせるということは母音の調和だが、aouが一つの範疇としてoに対立しているということは、音節の対比を求める現象であるaouは調音上、知覚上、類似の音ではなく対照的である。対照的であるがゆえに調和音となり得る。
 母音調和ということは、音声の同化作用を意味すると同時に、異化作用(音声の対照)を含む。我が国の詩歌の表現においては、この異化作用(音声の対照)の中に、表現の美的効果を狙ったものがある。母音の対照ということは、調音の円滑な流動を意味するのであり、そこに筋肉運動と知覚上の諧調の快感を伴う。同一母音(例えばア列音、ウ列音)の連続は諧調ではない。特に句頭句尾に同じ音が繰り返されることは、知覚の単調を強調するため、古来《さしあひ》(注・差し障り)として忌まれる理由になった。また音の交錯にしても、ウオアエイのような連続は、音相互の連続に明晰を欠くので美的ではない。アイウエオの連続は、音に変化があると同時に、各音の限界が極めて対立的で明晰である。この変化と明晰との原理の中に国語の音声の美的構成の理念を見出すことはできないか。
 二條良基は「知連抄」で、五韻連声(注・和歌・連歌などで、五・七・五の各句の移り目に同母音を継いで音調を整える技法)と五韻相通(注・和歌・連歌で,句の移り目に五十音図の同行の字を置いて,音調を整える技法)について述べ、前者の実例として
● 薄雲の立井に老のかなしくて
 という句を示している。「薄雲(のた)ちゐに老(のか)なしくて」のように、の→た、の→かと転じる音の変化を技巧的にならったものではないだろうか。連声とは音の連呼の上に現れる諧調を意味するものである。後者は、五七五の句尾の音を、アイウエオの五韻で相互に交錯対照させるべきことを教えたものであり、《さしあひ》の禁忌を、積極的に美的表現の技法にしている。例として、
● 奥山やまたれし月に深ぬらん
● 散花やまた面影にかへるらん
 を示しているが、「奥山(や)またれし月(に)深ぬ(らん)は、アイウの韻の交錯対照によって表現に変化を与えることができたのである。
 拍音形式のリズムをもつ日本詩歌においては、脚韻の同化を排し、むしろ母音の異化作用によって、諧調と変化を求めようとしているといえる。このことは、国語の詩歌の形態にも通じる原則であろうと思う。
 
【感想】
 ここで、著者は「言語がいかにして美的に形成されるかを、言語過程観の立場に立って、分析的に考察」するということで、「最初に音声に関する美について述べ」られている。
 まず、国語の基本的リズム形式は、「等時的拍音形式」なので、そのリズムを埋める音声は、「相互に混濁しないこと、相互に明晰であることが必要である」ということである。つまり、音声と音声の「切れ目」がはっきりとしなければならない。「ウオアエイ」という音声は調音法(注・この場合は口の開き方)の似ているものが隣同士になるので「相互に混濁」してしまう。「アイウエオ」は、隣同士の音声の調音法がはっきり異なるので、「ウオアエイ」よりも「アイウエオ」の方が美的であるということになる。なるほど、アナウンサーや俳優の「発声練習」では「ウオアエイ」という音声が素材になるが、それは話す立場からの(「口の開け方」という)筋肉トレーニングのためであり、聞く立場からすれば「アイウエオ」の方が明晰でわかりやすいということだろう。
 また、最近の歌謡曲では、意図的に「等時的拍音形式」のリズムを「避けよう」する傾向が目立つことも興味深い。国語本来のリズムやアクセントを崩して「欧米風」のリズムやアクセントを多用するので、私などはほとんど歌詞が聞き取れない。日本人の美的感覚はもまた変わりつつあると痛感する。
 次に、著者は二條良基の「五韻連声」(ゴインレンジョウ)と「五韻相通」(ゴインソウツウ)という技巧を紹介している。和歌の句尾にある韻を工夫することによって、調子を整える方法である。「薄雲の立井に老のかなしくて」では、「の→た」「の→か」と韻を揃え、「奥山やまたれし月に深ぬらん」では句尾を「や」(ア列音)、「に」(イ列音)、「らん」(ウ列音)にすることで「アイウ」という調子を作り出している(母音の異化作用)ということである。
 これまで、何気なく和歌を読んでいたが、そのような工夫が施されていることを知り、大いに参考になった。(2017.12.11)