梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・62

四 詞辞の敬語的表現の結合
 敬語表現を理解するためには、まず話し手(甲)、聞き手(乙)、素材および素材に関連する人(丙・丁)、それらの相互関係を明らかにしておく必要がある。
 (一)まず表現素材について、これを構成する要素を明らかにする。すなわち丙、丁の関係を考える。今、「見る」という事実を例にとれば、誰が、誰を、また何を見るか、誰と誰の上下尊卑の関係はどうなっているか等を明らかにする時、次のような表現が成立する。
〈丁が丙よりも上位にある時〉
⑴ 丁が丙を(見てやる)。
⑵ 丁が丙を(見て下さる)。
⑶ 丙が丁を(見てあげる)。(見て差し上げる)。
⑷ 丙が丁に(見ていただく)。
(二)次に、素材と話し手との関係を見る。
⑴ 丁が丙を(見てやり)(なさる)、(見て)(お)(やりなさる)、(見て)(お)(やりになられる)、(見てやら)(れる)。
⑵ 「下さる」はそれ自身に話し手との関係の規定を含んでいるが、次のような表現が可能である。丁が丙を(御覧)(になって)(下さる)、(御覧)(なさって)(下さる)。
⑶ 丙が丁を(見てあげ)(なさる)、(見て)(おあげ)(なさる)、(見て)(おあげ)(になる)、(見て)(おあげ)(になられる)、(見てあげら)(れる)。
⑷ 丙が丁に(見ていただき)(なさる)、(見て)(おいただき)(なさる)、(見て)(おいただき)(になる)、(見て)(おいただき)(になられる)、(見て)(いただか)(れる)。 (三)さらに、聞き手との関係を考慮に入れれば
⑴ 丁が丙を(見てやり)(なさい)(ます)、(見て)(おやり)(なさい)(ます)、(見て)(おやり)(になり)(ます)、(見て)(おやり)(になられ)(ます)、(見て)(やられ)ます。
⑵ 丁が丙を(見て)(下さい)(ます)、(御覧)(になって下さい)(ます)、(御覧)(なさって下さい)(ます)。
⑶ 丙が丁を(見てあげ)(なさい)(ます)、(見て)(おあげ)(なさい)(ます)、(見て)(おあげ)(になり)(ます)、(見て)(おあげ)(になられ)(ます)、(見てあげら)(れ)(ます)。
⑷ 丙が丁に(見ていただき)(なさい)(ます)、(見て)(おいただき)(なさい)(ます)、(見て)(おいただき)(になり)(ます)、(見て)(おいただき)(になられ)(ます)、
(見て)(いただかれ)(ます)。
 以上で明らかなように、敬語の結合法は、素材、素材と話し手、話し手と聞き手という順序に従って、順次に結合されて表現される。
 国語における動詞の敬語的表現は、上のような三段の構えに対応してはじめて完成されることはほぼ動かぬ事実であると思う。 


【感想】
 ここでは、動詞「見る」を例にとり、①素材(登場人物)相互、、②話し手と素材、
①話し手と聞き手、の上下尊卑の関係に規定(影響)されて、敬語表現がどのように変化するかということが、詳細に述べられている。古文はもとより現代文の中でも、そのような敬語表現は至る所に見つけることができる。それを解釈する時に大切なことは、誰が、誰について、どんなことを語ろうとしているか、その時、誰と誰はどのような関係にあるか、また作者は誰と誰のことをどのように見ているか、そして読者に対してもどのような敬意を払っているか、を明らかにすることだ、ということがよくわかった。
 以上で、著者の「敬語論」は終了する。敬語は、話し手の敬意を直接に表現するのは敬辞に限られており、その他は登場人物の上下尊卑の関係を表すものがほとんどであるということがよくわかった。
 蛇足だが、私の綴る文章は「手紙」(メール)を除けば、すべて「常体」であり、読者に対して全く敬意を払っていないということにも気づいた。まさに「文は人なり」、身勝手で自己中心的な性格が、見事に露呈されているということ(であります)。
(2017.12.10)