梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・61

 次に敬辞を列挙する。
一 「ます」
 動詞連用形に付き、「花が咲きます」「本があります」「御座ります」となる。
二 「です」
 形容詞終止形に接続して、「山が高いです」となり、また動詞終止形に接続して、「花が咲くです」「本があるです」となり、体言に接続して。「花です」「駄目です」となる。これは、単純な陳述「だ」の変容だが、動詞、形容詞は単純な陳述の場合は「だ」を用いず零記号になるが、体言の場合は原形は「だ」を用い、「花だ」「駄目だ」のように用いたれる。「花が咲くだ」「山が高いだ」のような陳述の重加は一般には行われない。
三 「であります」「でございます」
 上は、元来、詞「あり」「ござる」に「ます」の接続したものだが、それが合体して、「だ」に対立する敬辞として用いられる。動詞に接続する場合、「咲くであります」「咲くでございます」と用いられるべきであるが、一般には「咲くでありませう」「咲くでございませう」という形の外は用いられない。それは推量辞「う」に接続するために「咲くであろう」(咲くだろう)などと、辞「であり」を加える方法に対立するものである。
 「ござる」は、元来、詞の敬語法に所属すべきものだが、それが判断辞として用いられる時は、「ます」と合体して、主体的な高度の敬意を表現するのに用いられる。その転換は、詞から辞への転換に、さらに場面的転換が加わったものであり、その原理をまだ説明できないが、同様な現象は後述する「はべり」にも現れている。「はべり」は、元来、伺候の意味を表す語だから、詞に属する。それは尊者に対する卑者の識別によるものだが、この語が同時に、場面に対する敬辞の役目を持ちつつ判断辞を兼ねていることに似ている。● それは干定国がことに侍るなれ。古き進士などに侍らずば、承り知るべきも侍らざりけり(「枕草子」・大進生昌の條)
 上の「侍り」は判断辞であると同時に、生昌の清少納言に対する敬意を表現したものである。
 また「ます」の起源が「参らす」はら出ているとするなら、これも元来詞に属していたものが、敬辞になったと考えるべきで、そこに詞より辞に、さらに同時に敬辞への転換が認められるのである。「あり」が、存在詞より単純な判断辞に転換すると同時に、「あり」と同じような意味を持つ詞としての敬語「侍り」「参らす」等が、判断辞の変容としての敬辞として対立的に用いられているということは注意すべきである。
四 「はべり」
 「はべり」は「あり」と類似の意味の語だが、伺候存在の意味を表す詞から辞に転じる時、同時に話し手の聞き手に対する敬辞として用いられる。
● 今までとまり(はべる)がいと憂きを、悲しう見奉り(はべる)。今さりとも、七年余の程に思し知り(はべり)なむ。(「源氏物語」・箒木)
 上のように、判断辞の敬辞的変容として、現今の「ます」と同様に用いられている。そのような用法が成立する前に、詞としての用法から、辞としての用法がまず派生することが必要である。
● ゆゆしき身に(はべれ)ば、
● かへすがへすつれなき命にも(はべる)かな。
 上の「はべり」は、辞としての用法の「あり」に相当するが、それは同時に聞き手に対する敬辞としての役目も兼ねていることに注意すべきである。「命にはべる」は、現代語の「命で(あります)」に相当し、理論的には「命に(ありはべる)」というべきだが、「はべる」に判断辞と敬辞とを兼ね合わせているのである。このような用法は、また「はべり」が純粋の詞として用いられた時にも見られる現象であって、
● 若人どもなむ(はべる)める。
● となむ聞くことも(はべり)。
 上の例では、「はべり」は特殊な存在概念の表現であると同時に、また聞き手に対する敬意の表現ともなっており、「とまり(はべる)」「見奉り(はべる)」と同様に「はべり(はべる)」とはいわないのである。このような表現の経済(節約・省略)から、やがて「はべり」における敬辞的側面が発展して、もっぱら場面的敬辞法として用いられるようになったと考えられる。
 同様な現象は「おはす」「おはします」「給ふ」についてもいえる。これらはともに詞に属するが、
● かたへのえさらぬ人々も多く(おはし)(はべれ)ば(「栄華物語」)
 このように聞き手に対する敬辞「はべれ」を結合して用いることもあるが、多くはただ、● 「・・・とうち過ごしつつ、御しほたれ勝にのみ(おはします)」と語りて(「源氏物語」・桐壺)
 のように「おはします」に聞き手に対する敬意をも兼用させている。
 四段活用の「給ふ」は、
● そこにこそ多くつどへ(給ふ)らめ(「源氏物語」・箒木)
● 君たちの上なき御遊びには、ましていかばかりかの人かはたぐひ(給は)む(「源氏物語」・箒木)
● 少しもなずらひなる様にも物し(給は)ず(「源氏物語」・若紫)
 また、下二段活用の「給ふ」も同様に、
● つらしと思はむと思い(給へ)て(「源氏物語」・夕顔)
● 谷にも落入りぬべくなむ見(給へ)つる(「源氏物語」・夕顔)
 上の「給ふ」は、もし聞き手に対する敬意を加えるなら「(給ひ)(はべる)」「(給へ)(はべる)というべきところを、この語だけで敬辞を兼ねているのである。
 私がいう敬辞法について、一般には丁寧語、鄭重語といい、尊敬とか自己の卑下とかを表すものではなく、ただ丁寧にいう場合に用いるものとされている。この考え方は正に逆のように考えられる。敬辞法は、話し手の聞き手に対する敬譲の表現である。これに反して、詞に関する敬語は、話し手の敬譲の表現というよりは、素材の上下尊卑の関係の認識であり、話し手の《わきまえ》の表現だから、敬意そのものの表現というには遠いものがある。常識的用法としては、いずれをも敬語あるいは丁寧な「物いい」といっているが、それは敬譲の対象について、その上下尊卑を識別する主体的立場において両者共通だからである。私が識別したいことは、両者の言語的相違についてである。一つは事物の《ありかた》を表し、もう一つは聞き手に対する敬譲を表現するのであり、この表現性の相違は、言語としての本質上の相違を示す。一つは詞に属し、もう一つは辞に属する所以である。
【感想】
 ここでは、著者が敬辞と名づけた「ます」「です」「であります」「でございます」「はべり」の用法について、詳しく述べられている。現代では「ます」「です」「であります」「でございます」は多用されているが、「はべり」という語は全く使われていない。わずかに古典落語「たらちね」の中で、「清女(きよじょ)と申し侍るなり」などと言うのを耳にするくらいであろう。
 私は、中学校でそれらの語を「丁寧語」として、「尊敬とか自己の卑下とかを表すものではなく、ただ丁寧にいう場合に用いる」と学んだが、著者は、その考え方は「正に逆」だと考えている。その点が興味深く、なるほどと納得した。要するに、敬辞は、話し手が聞き手に対して敬意を表す語であり、その根柢には当然「尊敬とか自己の卑下とか」いう
心理が働いているということである。著者にとっては、敬語を「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」に分類することは意味がない。なぜなら、この三者は「黒」「白」のようにはっきりと区別する概念ではないからである。よく考えれば「差し上げる」という語は、自分を卑下し、相手を尊敬しているとも解釈できるということであろう。  詞による敬語は、話し手と素材(登場人物等)、素材相互の上下尊卑の関係を、概念的に表すに過ぎないが、辞による敬語(敬辞)は、話し手の聞き手に対する敬意が直接的に表現されるという意味で、まさに敬語である(単なる丁寧語ではない)ということがよくわかった。
(2017.12.9)