梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

現代の「楢山節考」

 今日は、私の69回目の誕生日である。「ずいぶん長く生きてしまったなあ」というのが率直な感想だが・・・。私の母は39歳、父は67歳、父方の祖母は72歳、母方の祖母は98歳で他界した。祖父は二人とも、私が物心ついた時にはすでに亡くなっていたので、知らない。母方の祖母が80歳を過ぎたとき「わしゃ、もう倦いたよ」と言ったが、その言葉が実感としてわかるようになった。「いつ死んでもいい」と頭では考えているのだが、いざとなると「まだ死にたくない」という気持ちが、反射的に生じることは間違いない。先日も、缶ビールを飲みながらレコードを聴いていたら、突然、心臓を毟り取られるような痛みが襲ってきた。周囲には誰も居ない。「スワ、心筋梗塞!」と思った途端、「救急車!119番」という言葉が「連想ゲーム」のように浮かんできたが、しばらくすると痛みは治まったので、性懲りも無く「まだ生きている」という次第である。
 今は「超」高齢化社会、10人のうち3人は「いつ死んでもおかしくない」と見受けられるが、そんな折り、昭和の古典「楢山節考」(深沢七郎)、映画「楢山節考」(監督・木下恵介)の「世界」は、大きな示唆を与えてくれる、と私は確信する。正宗白鳥は、作物について「私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」と述べたそうだが、まさにその眼目は「人間の《あるべき》死に方」であろう。70歳になったら「楢山参りをしなければならない」(死ななければならない)という村の掟を「喜んで」受け入れる主人公・おりん、一方、その掟を無視、頑として生き続けようとする銭屋の又やんの「対比」は、今も鮮やかだ。10人のうち3人は「いつ死んでもおかしくない」、ではその3人のうち何人が「喜んで」死を受け入れることができるだろうか。言うまでもなく、おりんは架空の存在だから、そんな御仁がいるわけがない。だが待てよ、統計資料によれば平成23年の70歳以上の人数は4543万人(総務省統計局)、そのうち自殺者数は6114人(内閣府)、その割合は0.01345%、およそ一万人に一人が「楢山参り」(自死)を成し遂げているという計算になる。
昭和の古典「楢山節考」は、単なる寓話・絵空事ではなく、平成の現代に「実話」として蘇っているのだ。しかし、その先達6114人が、おりんのように讃えられる時代は、今後、永久に回帰しないであろう、と私には思われる。(2013.10.25)