梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・25

《第二章 文字論》
《一 文字の本質とその分類》
 文字の本質は言語過程の一段階である。それは二つの側面からいうことができる。その一は、文字は、「書く」「読む」という心理的生理的過程によって成立する。音声が発音行為によって成立するのと同じで、文字は書記行為であるといえる。文字は主体的所産であり、活字についてもいえる。音声における拡声装置に似ている。文字を書記行為として捉えると、筆写体と活字体、草書と楷書と行書、平仮名と片仮名等のように分類できる。その二は、文字が音声あるいは意味を表出し、言語としての機能を果たすところにある。主体的な思想感情が外部に表出される一段階として見ることができる。第一の書記行為としての文字は、第二の意味・音声の表現としての文字の部分的過程と見ることができる。意味・音声の表現ということは文字の本質であるから、文字の本質的分類は、それが言語の音声を表すか、意味を表すかにつながっている。文字を過程的において把握することと、主体が何を表現しようとするかを文字の分類基礎とする主体的立場に立つ時、文字は一表音文字、二表意文字に分類される。表音表意ということは。話し手の側からいえば、音声を表す文字、意味を表す文字であり、聞き手の側からいえば、音声を喚起される文字であり、意味を喚起される文字であるというように解釈しなければならない。文字の区分は、話し手聞き手を含めた主体的意識に立脚してはじめて決定されることである。
 一般に表意文字として使用される漢字が、表音文字として広く使用されたことは、万葉集等の記載法でよく知られているが、一般には表音文字として使用される仮名が、稀に表意文字として使用されることがある。例えば、電報の記載法として「五ヒカヘル」のように使用されるヒは「日」の代用として表意的意図が濃厚である。また、物語文等にしばしば見られる「廿よ日」の《よ》は表音的でなく餘字の代用として表意的に使用されたように推定される。以上の例からも、主体的意識を除外して文字の分類をすることはできない。
 しかし、従来の文字の考察に見られる態度は、第一に、文字を客体的存在として考え、言語主体がこれを使用するというように考えた。例えば、借訓という名目からも明らかなように、漢字の持つ訓を借りて国語を表すというように考えた。第二には、漢字をその読法と睨み合わせてその関係を考慮した。例えば正訓、天(アメ)、地(ツチ)に対して、略訓約訓、荒磯(アリソ)、磐余(イハン)を対立させたようにである。これは文字と言語の関係を、容器とその内容のように静的構成の関係で観察したことを意味するのであり、そこでは言語主体との関係は考慮されず、文字とその読まれたものとの関係だけが考慮されているのである。
 元来漢字は外来的のものであり、常識的にはこれを客体的存在として考え、借用とという観念で律するということはやむを得ないが、それが国語を表現するということになるなら、その関係は借りる者と借りられる物との関係ではなく、借りられる物は表現の機能として考えられなければならない。
 従来の用字研究は、漢字とその訓法との関係のみを注意したために、「サクラ」を「桜」と記載することの代わりに「さくら」と記載することがどのような用字法に属するかを明らかにできず、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違の意味することも明らかにできず、用字研究はほとんど漢字専用文献の問題として限られた。
 文字の分類の基礎に主体的意図として表音と表意を認めるなら、文字の一切の現象は、この主体的原則を推して行かなければならない。その時、国語の文字はどのような体系に組織されるのだろうか。次に、この点について触れたい。


【感想】
 文字とは何か。著者は「文字の本質が言語過程の一段階にある」ということを、二つの側面から説明している。〈その一は、「文字は、「書く」「読む」という心理的生理的過程によって成立する。音声が発音行為によって成立するのと同じで、文字は書記行為であるといえる。文字を書記行為として捉えると、筆写体と活字体、草書と楷書と行書、平仮名と片仮名等のように分類できる。その二は、文字が音声あるいは意味を表出し、言語としての機能を果たすところにある。主体的な思想感情が外部に表出される一段階として見ることができる。第一の書記行為としての文字は、第二の意味・音声の表現としての文字の部分的過程と見ることができる。意味・音声の表現ということは文字の本質であるから、文字の本質的分類は、それが言語の音声を表すか、意味を表すかにつながっている。文字を過程的において把握することと、主体が何を表現しようとするかを文字の分類基礎とする主体的立場に立つ時、文字は一表音文字、二表意文字に分類される。表音表意ということは。話し手の側からいえば、音声を表す文字、意味を表す文字であり、聞き手の側からいえば、音声を喚起される文字であり、意味を喚起される文字であるというように解釈しなければならない。文字の区分は、話し手聞き手を含めた主体的意識に立脚してはじめて決定されることである〉ということである。つまり、文字を過程的に把握するという主体的立場に立てば、まず「表音文字」と「表意文字」の二つに分類されるということである。
 さらに著者は、従来の文字研究が、文字を客体的存在として考えたこと、漢字をその読法と睨み合わせてその関係を考えたことについて批判している。
 私自身、「サクラ」を「桜」と記載することの代わりに「さくら」と記載することがどのような用字法に属するか、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違の意味を明らかにすることができない。次項でそれらが明らかになることを期待して読み進めたい。(2017.9.25)