梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・14

四 言語に対する価値意識と言語の技術
(前・中略)
 私は価値意識と技術の対象を《事としての言語》に置く。《事としての言語》とは、言語をもっぱら概念・表象の、音声・文字に置き換えられる過程として見る立場である。物の運用としての《事》でなく、内部的なものの外部への発動における《事》である。従って、価値とは、話し手によって行為される言語的表現に対する話し手自身のもつ価値意識であり、技術とは、この価値ある行為を実現するのに必要な技術である。言語過程観に従えば、言語は行為の一形式であるから、飢えた人に同情して金を恵んだり、悪事を犯した者を鞭打つ場合の行為と同様であって、異なるのは行為の形式である。人はつねに自己の行為をに対して価値判断をし、金を恵むことが適当な行為であるか否かを考えるように、言語的表現においても同様な判断をする。例えば、「食う」と表現するか「いただく」と表現するかを決定するのは、言語的行為に対する行為者の価値判断である。発音も言語的行為の一部であるから、時と場合により、明晰に発音することを価値があると考えることもあれば、曖昧をよしとする場合もある。文字についても同様であって、一点一画を厳密にするという行為も、それが価値があるとするところから出てくる。
 これらの価値意識、技術は、時代により、所により統一される傾向があるが、十分に目的が達せられない場合には、新しい価値意識が現れ、技術が工夫される。言語の歴史的変遷ということは、言語過程の漸次あるいは突発的な変革によってもたらされる。例えば、仮名の発達について見ると、仮名は単に漢字の字形が崩壊したものであるということだけでは説明できない。仮名が発生するためには、まず漢字の表音的用法の成立ということが必要である。このように用いられた漢字は、ことさらに一点一画を厳密にする必要がない。だいたいの輪郭だけ移せば事足りると考えられてくる。これは記載に対する一つの価値判断である。この中にも漢字の省略をよしとする場合と、草体をよしとする場合に分かれて、片仮名、平仮名が成立すると考えられる。技術はこれらの価値判断に伴う実現の手段であって、言語の全過程はこれに規定されて種々な形をとって表れる。音声の抑揚、明暗等みなこれら価値と技術に基づくものである。 
 価値意識および技術は、言語主体に属することである。例えば、舵手が操艇について適宜な判断を下し、艇員各自の能力を発揮させて舟を目的地に赴かせるようなものである。舵手は操艇の主体である。このような言語過程に参与する主体の価値意識ならびに技術を包含することによってはじめて具体的な言語を把握したということができるのである。
 言語過程観から分析されるものは、一方には言語素材の表現の段階としての表象、概念、音声、文字であり、さらにこのような主体の過程的発展を促す原動力である主体の価値意識及び技術である。言語はこのようなものの総合された一つの統一的行為の全体であるということができる。


【感想】
 この節の前・中半では、標準語と方言、雅語と俚語・俗語、文語と口語などのいずれに価値があるか、国語学と政策論、教育論、ソシュール的言語観、その目的論等々について著者の見解が述べられていたが、私の読解力を超えた内容なので、今は割愛する。
 後半では、言語過程観による価値意識と技術について説明されている。それによれば、言語に対する価値意識と技術は《言語主体属する》ことであり、すべて主体の価値意識と技術に委ねられているということであるらしいが、確信はもてない。
 ただ、言語は、「素材の表現の段階としての表象、概念、音声、文字と、主体の過程的発展を促す原動力である主体の価値意識及び技術が総合された一つの統一的行為の全体であるということができる」という説明はわかったような気がする。つまり、言語の成立条件を主体、場面、素材として挙げてきたが、その主体の価値意識、技術が実際の「言語過程」には大きくかかわっている、ということかもしれない。(2017.9.14)