梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・11

《八 言語の構成的要素と言語の過程的段階》
一 文字及び音声
 言語過程説は、その言語本質観に基づいて、言語はすべてその具体的事実においては、主体の行為に帰着する。従って、言語構成説に現れる言語の要素的なものは、全て主体の表現的行為の段階に置き換えられなければならない。
 文字は一般に音声を包含していると考えられているが、それは視覚的印象によって喚起されたものを視覚的印象自身が持っていると考えるに過ぎない。また、文字は主体的行為である「書く」という働きがなければ成立しない。文字は要するに、理解、表現という主体的な行為の一段階として把握されなければならない。線の集合が何らかの音声を喚起すると考えられる時、それは文字であると認められる。漢字のような意味を表す文字においても同様である。「山」は概念「山」を表出し、これを喚起するところに表意文字としての特質がある。文字が音及び意味を表出し、これを喚起するところに本質があるということは、音楽における楽譜が旋律を表現し、受容する媒介となることに似ている。
 文字は、音及び意味を表出する主体の働きの一段階、理解作用の一契機として考えなければならない。文字は、発音し、読むことの一つの延長に過ぎないのである。物的な文字が主体的の表現の媒介になった時、純客観的な物的存在物ではなく、主体的活動の延長と考えなくてはならない。物をいうこと、発音による表現行為の延長と考えて、はじめて文字の本質を把握することができるのである。それが、文字を言語の一部と考える根拠である。文字をもし物的存在として考えるならば、単なる線の集合に過ぎない。
 音声の本質を音波と考えたり、[ア][イ]の音声表象を音声研究の対象とする、観察的立場からの音声把握においては、音声と自然の風、水の音響とを本質的に区別することはできない。音声を音声として観察するためには、主体的立場を必要とする。それは音声それ自身が主体的表現行為の一つの段階だからである。それは精神生理的な過程なので、観察的立場で把握するためには、まず主体的立場における音声行為の全過程を体験することが必要である。自然的音響の認識においては、発音体とその振動及び音波の伝播を考えることによって科学的認識に到達するように、音声においては、主体的な音声表象、発音行為、その音波の物理的性質等を総合的に把握してはじめて音声認識に到達する。それは全言語過程の一段階なのである。ラジオ、レコードのような機械の力で再生された音声であっても、それが音声といわれる場合には、機械は単に発音行為を助けるものとして、声帯、唇、舌等の延長に過ぎず、音声が音声としての本質を失ったわけではない。
 音声は、文字が読むこと、書くことに本質があると同様に、主体的な発音行為、聴取行為に本質があり、主体的知覚印象としての音声表象は、主体的行為の段階の一断面に過ぎないのである。音声の分類基準は以下の通りになる。
◎音声表象の相違によるもの
・ア、イ、ウ、エ、オを区別し、カ、サ、タ、ナ・・・等の区別。音声表象は、主体的立場におけるものであって、観察者が主体的立場を除外して[ア]に[a]と[α]とを区別するのとは異なる。言語において母音幾個、子音幾個といわれるのは、主体的立場における音声表象によるものである。
◎発音行為の相違によるもの
・発音の場所:口腔、鼻腔、唇、歯、舌等の音
・口腔の間隙:密閉、破裂、摩擦等の音
・声帯の関与:有声、無声等の音
◎音声の知覚印象上のもの
・清音、濁音 ・促音、撥音、長音  ・直音、拗音
 音声を主体的な表現段階と考えれば、物理的音響と区別することができ、音声を言語過程中の一段階と考え、音声自身の中に種々の過程段階があることを認めれば、音声は一方的心理表象とも考えられ、また生理的物理的過程とも考えられて、一般的な音韻論、音声論の対立も解消できるのである。


【感想】
 観察的立場による言語構成説では、文字や音声は言語の構成要素と考えられているが、言語過程説では、言語はすべて主体の行為に帰着するので、文字や音声はすべて主体の表現的行為の段階に置き換えられなければならない、というのが著者の見解である。
 文字は単なる線の集合であり、音声は空気の振動である。それを言語たらしめるためには、主体の存在が不可欠である。主体(話し手)は、自分の考えや気持ちを表現するために、音声や文字を媒体とする。また、話し手の表現を受容しようとする主体(聞き手)は、相手の考えや気持ちを理解(追体験)しようとして、音声や文字を手がかり(媒体)とする。それが、言語の具体的事実であるということがよくわかった。 
 私たちが発音するア、イ、ウ、エ、オ・・・等という音声は千差万別であり、物理的にはすべて異なる(声紋)。にもかかわらず、相手の「ア」という音声を聞いて「ア」と認識できるのはなぜだろうか。感覚的認知ではなく概念的認知ができるからということかもしれない。著者のいう「音声表象」がどのように育つものなのか、興味をもって読み進めたい。(2017.9.11)