梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・10

《七 言語構成観より言語過程観へ》
  ソシュールのいう「言語」(ラング)は、概念と聴覚映像が「互いに喚起し合うものである」と考えたが、それは《もの》ではなく、概念と聴覚映像とが継起的過程として結合されていると考えなければならない。あたかも、ボタンを押すとベルが鳴るというような現象のようなものである。言語において、概念と聴覚映像が互いに喚起し合う心理的現象は、生理的には大脳皮質部の中枢間(聴覚中枢と音声に対応する意味を理解する中枢)の伝達作用に置き換えることができる。この伝導作用に疾患があると、言語の音は受容されるが意味を理解できない認知不能症、他人からいわれればその名を思い出す健忘失語症などの状態になる。このようなことからも、「言語」(ラング)は、精神生理的経時的過程現象であるといわなければならない。文字もまた、単なる線の集合ではなく、音を喚起し、概念を喚起する継起的過程の一断面として考えられなければならない。
 言語においては継起的過程でないものはない。継起的過程現象が、すなわち言語である。
言語の本質を一つの心的過程として理解すれば、言語を言語たらしめている一様にして純一な対象を見出すことができると思う。言語表現は他の思想表現(音楽、絵画等)と比べて、そもそもの出発点から異なった方向をとって現れる表現過程を持つ。これを明らかにするには、言語過程に参与する種々の要素を一つを除外してみればよい。概念のない言語、音声のない言語を考えることはできない。概念、音声は言語過程として不可欠の段階であり、このような過程の存在においてのみ、我々は言語の存在を意識することができるのである。未知の言語を聞いた場合でも、それが何らかの観念に還元できると考えることによって言語の存在は理解されるのである。
 言語活動においては、概念に連合する聴覚映像は、直ちに運動性言語中枢に伝達され、発音行為となる。表現素材である具体的事物は、概念過程を経て一般化され、発音行為に移された時、音声は全く思想内容と離れて外部に表出される。特定の象徴音を除いては、音声は何ら思想内容と本質的合同を示さない。これを合同と考えるのは音義学的考えである。(平田篤胤は「物あれば必ず象あり、象あれば必ず目に映る。目に映れば必ず情に思う。情に思えば必ず声に出す。その声や必ずその見るものの形象(アリカタ)によりてその形象なる声あり。これを音象(ネイロ)という」(「古史本辞経」)と述べているが)
 音声は聴者において習慣的に意味に連合するだけで、それ自身何ら意味内容を持たない生理的物理的継起過程である。音が意味を喚起するという事実から、音が意味を持っていると解するのは、常識的にのみ許せることである。 
 言語が、特定個物を一般化して表現する過程であるということは、言語の本質的な性格である。ここで、一般的表現でどのように特定個物を表現することができるかという表現法の問題と、一般的表現からどのようにして特定の個物を認知できるかという理解上の問題が起こってくる。我々が言語の音声の連合によって理解できるものは、まず最初に一般的な概念である。例えば「花が咲いた」という言語を聞いても、理解できるのは「花」の概念以外のものではない。言語は、どのような場合でも一般的、概念的表現しかできない。聞き手が話し手の気持ちを理解できるのは、一般的概念的表現を通して、話し手の具体的な感情を理解するからである。理解は、現場や文脈によるのであって、これらの語自身が限定されているためではない。


 私の言語過程観(最も基本的な形式)を図示すると・・・・・。
《話者の遂行過程》
・第一次過程:素材(具体的事物・表象・概念)→概念
・第二次過程:概念→聴覚映像
・第三次過程:聴覚映像→音声
・第四次過程:音声→文字
*空間伝達過程
《聴者の受容過程》
・第四次過程:文字→音声
・第三次過程:音声→聴覚映像
・第二次過程:聴覚映像→概念
・第一次過程:概念→素材(具体的事物・表象・概念)
 以上は、遂行者から受容者への伝達過程であり、純物理的過程である。素材は、具体的事物である場合もあり、表象である場合もある。第一次過程が存在せず、概念が素材になる場合もある。(後述する「辞」)文字的表現は、聴覚映像より直ちに文字に移る場合と、いったん音声的表現に移されてから文字に移される場合と、概念より直ちに文字に移る場合があり得る。この場合は、文字というよりは符合の性質を持ってくる。
 ソシュールの「言語」の概念は、第二次より第三次への過程を、平面的、構成的に見たのだが、実際の言語活動は、素材から第三次あるいは第四次に至る継起的過程の繰り返しの連続である。
 言語は上のような過程それ自体であって、それ以外のものではない。このような過程が成立するためには、主体、場面、素材の三つの条件が必要であることは、総論第五項で述べた通りである。言語過程説においては、言語の過程的構造を中心として問題が展開する。それは言語の本質を心的過程と見る必然の帰結である。過程的構造こそ言語研究の最も重要な問題が存在するのである。


【感想】
 ここでは「言語過程説」の真髄である《過程》の構造が明示されている。言語(過程)が成立するためには、主体、場面、素材の三条件が必要であることを踏まえて、まず主体(話し手、遂行者)が素材を概念化する。(花を見て「花」という概念を特定する)それが第一次過程である。次に、その概念から聴覚映像を喚起する。(「花」という概念から「ハナ」という聴覚映像を喚起する)それが第二次過程である。さらに、「ハナ」という聴覚映像を音声化する。(「ハナ」と発音する)それが第三次過程である。「ハナ」という聴覚映像は「花」「ハナ」「はな」等と文字化される場合もある。それが第四次過程である。その音声や文字は空間伝達過程を経て、場面(聞き手、受容者)に伝わる。聞き手は音声または文字を見聞(弁別)する。(「ハナ」という音声を聞き分けたり、「花」という文字を見分けたりする)それが聞き手の第三次過程、文字の場合は第四次過程である。聞き手はその音声や文字から聴覚映像を喚起する。(「ハナ」という音声が語音であることを理解する)それが聞き手の第二次過程である。最後に「ハナ」という語音、「花」という文字から「花」という概念を喚起する。それが聞き手の第一次過程である。
 この説明は、私にとっては大変わかりやすく、興味深かった。そして、最も気になったことは「聴覚映像」とはどういうものか、ということである。私は、英語を聞いても理解できない。「音声」は聞こえるが、それが「聴覚映像」に移っていかないのである。当然、「聴覚映像」から「概念」に移ることはままならず、その結果「理解できない」ということになるのだろう。「音声」と「聴覚映像」にはどのようなつながりがあるのか、そこに留意して以下を読み進めたい。(2017.9.10)