梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・9

四 社会的事実としての「言語」(ラング)について
 ソシュールは、「言語」(ラング)が言語活動の単位であると述べていると同時に、また「言語」(ラング)が社会的所産であるということをいっている。
 ソシュールは、「言語」(ラング)を社会的事実として認識するにあたり、次のような過程をとっている。
◎言語活動によって結びついた個人間には、一種の媒体ができるであろう。彼らは皆、同一概念と結合した同一に近い記号を再造するに違いない。(「言語学原論」)
 「言語」(ラング)が社会的事実として認識されるのは、第一にそれが個人間の社会的交渉に原因すると同時に、社会的交渉を成立させる媒体と考えられるからである。この媒体は、個人的「言」(パロル)とどのような関係にあるのだろうか。
◎言語は言語活動の社会的部分であり、個人を外にした部分である。(「言語学原論」)
 ここに「言語」(ラング)の外在性ということが考えられているのである。
 第一に、個人間に同一あるいはそれに近い記号が再生するということが、どのようなことを意味するかを考えてみよう。もし「言語」(ラング)をこの意味のように解するならば、それは個物を通し帰納された普遍的概念に相当し、個々の「人」から帰納して得た概念「人」に等しいものである。それは認識的所産であって、具体的な「人」と同列に実在すべきものではない。同一記号の再生という現象は、(条件的には個人間の社会的交渉ということが考えられるが)本質的には個人銘々が共通に所有する、受容されたものを整序する能力に基づく。この能力こそ普遍的本質的のものであり、それによって各個人がほとんど同一に近い記号を再生できるのであって、社会的交渉というのは単にその色づけに過ぎない。従って同一記号の再生というだけでは、まだ「言語」(ラング)を社会的事実と断言する根拠は薄弱である。ソシュールによれば、「言語」(ラング)が社会的事実と考えられる根拠は別にもあるようである。ソシュールは個人間に成立した共通のものを、個物に対する概念と考えず、個人間に成立した一種の媒体であると考えることによって「言語」(ラング)に外在性と実在性を与えようとする。ただし、ここには著しい論理の飛躍があることに注意しなければならない。各個人間に同一記号が再生されるということは、受容者の能力に基づくことであり、これを共通的、統一的なものとして考えるのは観察的立場における認識の結果である。「言語」(ラング)という概念が、直ちに個人間の思想の伝達をする媒体であると考えたことは、認識的所産を実在と考えたことになるのである。個々の具体的なものと、その概念との関係において見るべきものを、個々のものと、それに外在するものとの関係において見たことに私は疑問を挟む。
 まずソシュールが「言語」(ラング)を一種の媒体であると考えたことから吟味したい。媒体という語は厳密な意味で使用されなければならない。言語活動において思想の伝達をするものは、実体的なものではなく、甲と乙との間に働く物理的生理的心理的な継起的過程である。乙が甲から受容するものは、これ以外のものではない。(ソシュールは)言語を意味を持った音声と定義するので、乙は甲から、音声と共にそれに随伴する意味をも受容するように考えるだろう。しかし、乙が甲から受容するものは音声だけであって、甲から受容したと考えられる意味は、乙自らがこの音声の連合によって喚起したものである。ソシュールの見解を検証すると、意味を持った音声としての言語観に類するものを見出せる。
◎こうした社会的結晶は何に起因するか。そこに原因として働くのは循行のいかなる部分か。部分は雑作なく取り除けられる(「言語学原論」)
 すなわち概念と聴覚映像との連合した「言語」(ラング)が媒体をすると考えるのである。かつては、意味を持った音声が甲より乙に伝達されると考えられた。今は「言語」(ラング)がそれに置き換えられたに過ぎないのである。ソシュールによって雑作なく取り除けられた物理的部分こそ、かえって個人間を結ぶ思想の伝達の媒体でなければならない。我々は既知の言語においても、音声の不明瞭な場合には、意義不通であり、思想の伝達は中断される。乙が甲と同様な記号を再生できるのは、「言語」(ラング)の力ではなく、意味を持った音声の力でもなく、受容された音声が、甲と同様な概念を喚起できる連合の習慣を乙が持っているからである。万人にほとんど同一と思われる記号が成立するのは、「言語」(ラング)それ自身が媒体としての職能を持っているからではなく、生理的物理的過程を媒体として同一概念を喚起できる習慣性が万人の間に成立しているからである。このような習慣性が成立するためには、もちろん条件としては個人間の社会的交渉が必要だが、本質的には個人の銘々に、受容的整序の能力が必要である。ソシュールは「もしすべての個人の頭の中に貯蔵された言語映像の総和を把握することができたら、言語を構成する社会的繋鎖に触れるであろう」(「言語学原論」)といったが、私なら、《個人の頭の中に貯蔵された言語映像の総和を把握することができ、その様は同じ辞書を各人が一本ずつ持っているに似ている(「言語学原論」)ということがいえるならば、それは各個人の整序的能力の普遍性を証明するものでなければならない》というだろう。もし、各個人間における言語映像の差別相に着目するならば、それは(整序的能力の差異というよりは)その条件である各個人の社会的生活、体験の相違に基づくものであって、それは言語の性質を規定するのである。従って、社会的ということは「言語」(ラング)の本質ではなく、「言語」(ラング)の性質についていえることである。「言語」(ラング)が社会的事実であるということは、個から帰納された普遍概念を実在のように考えた誤りであり、「言語」(ラング)が個人間を結ぶ媒体であると考えることは、個人の普遍的整序能力を外在的なものに置き換えたことである。ソシュールが「言主の頭の中で、万人にほとんど同一と思われる印象ができあがるのは受容的整序能力の働きである」(「言語学原論」)といったことは正しい。この能力による所産を、直ちに媒体と考え、これを社会的事実と考えたことは、論理の飛躍といわざるを得ない。


 「言語」(ラング)が社会的事実と考えられた別の重要な理由は、それが拘束性を持つと考えられたからである。ソシュールはいう。
◎言語はすべての社会制度の中で、最も個人の創意に拘れぬものである。(「言語学原論」)◎集団が認めた法則は各人が受容すべき物であって、自由勝手に協約できる規則とは自ら選を異にするという事を、言語ほどよく立証して余す所なきものはないからである。(「同書」)
 拘束性は、主として言語の主体的立場において意識される事実であるが、周囲のものとほとんど同じ手順で言語行為を遂行しているので、このような事実が外部的な拘束力によって実現されているように考えられるのである。
 言語において、最も明瞭な外部的拘束力、例えば仮名遣いの厳守、漢字の制限、方言の矯正のようなものであっても、時には甚だしく無力なことがある。拘束性を形成する重要な要素として習慣性と技術性をあげることができる。習慣性は、受容的整序能力の結果であり、習慣に逆行した言語的表現は、表現とは認められない。技術性は、表現意識の満足を得るために言語に加えられる改新的力である。「言語」(ラング)の統一性は、「言語」(ラング)それ自体に拘束性があるのではなく、言語行為の習慣の普遍性が「言語」(ラング)の統一を保つのである。それは受容的整序の普遍性が、万人に同一記号を再生させることと相表裏している。
 ソシュールが、言語における社会的性質を認めたことは正しい。しかし、この性質を対象化して、言語活動の循行の中に切り取って、これ
を「言語」(ラング)として認識しようとしたことは大きな誤りである。


五 結
 以上三項の内容を要約すると、ソシュールは多質的混質的な具体的言語の中に単位的なものを求め、それで具体的な言語を説明しようとする。同時にその単位的要素こそ言語研究の対象であるとし「言語」(ラング)と名づけた。「言語」(ラング)は聴覚映像と概念の結合という純心理的実体として認められ、言語主体とは交渉のない社会的事実としての存在であり、その存在形式は全く物的対象と変わらない。「言語」(ラング)は、他の物体と同様に、構成的構造を持つものである。「言語」(ラング)は、主体が使用する時、はじめて主体と関係を持ってくるが、「言語」(ラング)と主体がどのように交渉するかという点については何ら明らかにされていない。また、言語学の対象が「言語」(ラング)であるとしながら、具体的な観察は、必ず「言」(パロル)に基づかなければならないと論ずるところに大きな矛盾が認められる。それらは、言語研究の対象に対する根本的態度に誤謬があると考えられる。ソシュールの理論は、その根本において、言語の自然科学的客体化の所産であり、主知主義的観点に立つ観察の結果である。
 このような言語本質観に対して、言語過程観はどのような立場に立つものであるか。それは、古く我が国語研究中に胚胎する注目すべき思想であった。私は言語過程観を具体的に示す前に、古き国語研究の暗示する言語観について述べておかなければならないと思うが、それらについては『国語学史』(岩波書店・1940年)全体で示しているので、本稿においては一切これらを省略する。


【感想】
 ここでは、ソシュールが「言語(ラング)は社会的的事実である」と認識していることに対しての批判が述べられている。
 その一は、ソシュールが言語活動を「同一概念と結合した同一に近い記号を再造する」こととし、言語(ラング)を個人間の媒体とみなして「言語活動の社会的部分であり、個人を外にした部分である」と断言したことに対する批判である。
 著者は、個人間に同一(あるいはそれに近い)記号が再生するという現象は、(条件的には個人間の社会的交渉ということも考えられるが)本質的には個人銘々が共通に所有する、受容されたものを整序する能力に基づく。この能力は普遍的本質的なものであり、その能力によって同一記号を再生できるのだから、言語(ラング)が社会的事実と断言する根拠は薄弱であると述べている。
 また著者によれば、個人間に成立した共通のものは、個物に対する概念に過ぎないのだが、それを外在性、実在性のある一種の媒体であると、ソシュールは考えている。これは著しい論理の飛躍である。媒体という語は厳密に使用されなければならない。言語活動において思想の伝達をするものは、実体的なものではなく、甲と乙との間に働く物理的生理的心理的な継起的過程である。乙が甲から受容するものは音声だけであって、甲から受容したと考えられる意味は、乙自らがこの音声によって喚起したものである。乙が甲と同様な記号を再生できるのは、「言語」(ラング)の力ではなく、甲と同様な概念を喚起できる連合の習慣を乙が持っているからである。万人にほとんど同一と思われる記号が成立するのは、生理的物理的過程を媒体として同一概念を喚起できる習慣性が万人の間に成立しているからである。その習慣性が成立するためには、個人の銘々に、受容的整序の能力が必要である。
 さらに、「言語」(ラング)が拘束性をもつので社会的事実である、と考えられた点については、言語において最も明瞭な外部的拘束力(例・仮名遣いの厳守、漢字の制限、方言の矯正)は甚だしく無力である。拘束性を形成する要素には習慣性、技術性がある。習慣性は、受容的整序能力の結果であり、習慣に逆行した言語的表現は、表現とは認められない。技術性は表現意識の満足を得るための改新的力である。「言語」(ラング)の統一性は、「言語」(ラング)それ自体に拘束性があるのではなく、言語行為の習慣の普遍性が「言語」(ラング)の統一を保つのである、と述べている。
 最後に「結論」として、ソシュールは、言語研究の対象として単位的要素を求め、それを「言語」(ラング)と名づけ、(他の物体同様)構成的構造を持つと考えているが、その「言語」(ラング)と主体(語り手)がどのような関係にあるかという点については何ら明らかにされていない。ソシュールの理論は、その根本において、言語の自然科学的客体化の所産であり、主知主義的観点に立つ観察の結果である、と結んでいる。


 私自身は、ソシュールの「言語学原論」を読んでいないので、著者の論脈を十分に理解したとはいえないが、ここでも終始、著者の言語研究における「主体的立場」が貫かれていることはよくわかった。(2017.9.9)