梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『宅間守精神鑑定書』(岡江晃・亜紀書房・2013年)の《疑問》

 「宅間守精神鑑定書」(岡江晃・亜紀書房・2013年)を読み終えた。本の帯には、「宅間守は2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で児童・教諭を殺傷した。2003年8月、死刑判決を受け、2004年9月、死刑が執行された。本書は、宅間守と17回面接し、精神鑑定を行った精神科医による初の著書である。大阪地方裁判所へ提出された精神鑑定書を、ほぼそのまま収載している」と、その内容が紹介されている。著者は「まえがき」で本書の出版理由(の一つ)を以下のように述べている。〈宅間守の診断について、精神鑑定書のなかで、精神症状やパーソナリティ(人格)をどのように把握し、そして診断に至ったのかを詳細に述べたつもりです。統合失調症(当時は精神分裂病〉や広汎性発達障害(なかでもアスペルガー障害)ではない、と判断しました。また、幼少期にネグレクト(親による育児放棄)があった可能性もありますが、そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした。診断について、精神科の臨床医や専門家などにより、その妥当性が検証されるべきだと考えています。(以下略)〉。私は「精神科の臨床医や専門家」ではないが、その妥当性について検証してみたい。「第六章 鑑定主文」(の一部)は以下の通りである。〈1 被告人宅間守には、いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があったと考えられる。この延長線上に青年期以降の人格がある。人格障害の診断は、クルト・シュナイダーのいうところの情性欠如者である。空想癖や虚言癖があり、共感性はなく、自己中心性、攻撃性、衝動性は顕著であるが、一方で穿鑿癖、猜疑心、視線や音への敏感さ、そして権力への強い憧れと劣等感などの人格あるいは性格の傾向も併せ持っている。精神障害の診断は、穿鑿癖・強迫思考等を基盤にした妄想反応である。穿鑿癖・強迫思考、そして猜疑心、視線や音への過敏さなどを基盤に,一過性の妄想反応としての注察妄想と被害妄想、持続性の妄想反応としての嫉妬妄想がある。反応性うつ状態、反応性躁状態を呈したこともある。前頭葉機能に何らかの障害を示唆する所見はある。人格や精神症状との関連については今後の精神医学的研究に期待したい。そして、知能は正常知能の下位である。2 本件犯行当時、被告人宅間守は情性欠如者であり、穿鑿壁・強迫思考等を基盤にした妄想反応である嫉妬反応が存在していた。一過性の妄想反応としての注察妄想と被害妄想は認められなかった。3 本件犯行当時の精神状態は、何らの意識障害もなく、精神病性の精神症状も全くなかった。被告人宅間守を悩ませていた穿鑿癖・強迫思考、視線や音への過敏さ、嫉妬妄想は、本件犯行へ直接的な影響を与えていない。本件犯行が極めて重大な犯罪であるという認識は、その直前、直後そして現在もある。本件反応そのものに踏み切らせた決定的なものは、情性欠如であり、著しい自己中心性、攻撃性、衝動性である。(以下略)〉。この鑑定内容は、(私にとって)「わかったようでわからない}。例えば、2で「嫉妬反応が存在していた」といいながら、3では「・・・嫉妬反応は、本件犯行へ直接的な影響を与えていない」という矛盾・・・。鑑定人は、被告人宅間守との面接結果、親族等の関係者の情報をもとに、宅間守の「問題行動」(犯行に至るまでの経過及び犯行当時の言動)をいずれかに「分類」しようとした。しかし「いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があった」、と鑑定している。そもそも「特異な心理的発達障害」とは何ぞや。専門用語としては「特異的発達障害」というべきところを、なぜ「いずれにも分類できない」などという形容句を添えたのだろうか。宅間守本人の言動を直視すれば、まさに「情性欠如者」であり、空想癖、虚言癖、自己中心性、攻撃性、衝動性、穿鑿癖、強迫思考、注察妄想、被害妄想、嫉妬妄想、反応性うつ状態、反応性躁状態など、といった(多種多様な)「行動特徴」を呈しているということであろう。その多種多様な症状が、「いずれにも分類できない」などという鑑定者側の「混乱」を招いていることは間違いあるまい。私の独断と偏見によれば、宅間守は「情性欠如者」であり、そこに至った要因は「特異的発達障害」、すなわち「学習障害」にある。その根拠は、①ウェクスラー成人知能検査の下位検査結果「絵画完成」の評価点が、他に比べて異常に低いこと、②性格検査の「風景構成法」における描画能力が「小学校低学年」レベルに止まっていること、である。聴覚的な学習能力は年齢並みであるのに、視覚的な学習能力、なかでも「構成能力」が著しく落ち込んでいる。周囲の事物を詳細に見極め、それを忠実に表現することが苦手である。それかあらぬか、「バウムテスト」に描かれた樹木は「大雑把」、どこか「他人事」で「投げやりな」印象を受ける。筆致は「幼稚」だが、上に向かった枝の線は「攻撃的」でもある。その「学習障害」が社会生活の中で、多種多様な「行動特徴」を引き起こすことになるのだが、その様相は、性格検査「PーFスタディ」の結果に集約されている。集団一致度=29%、他責的反応=67%、自責的反応=0%。(この結果は明らかに異常である)鑑定人の所見には、〈また攻撃性の型をみると、障害優位型(O-D%=63)であり、失望や不平(それも「あっそう」等の投げやりな態度)を表明するのみで、責任の所在を明らかにする姿勢やや問題解決へ向かおうとする姿勢が見られない〉とある。要するに、宅間守は、つねに欲求不満の原因を「他人のせい」にして攻撃する、自制心・反省心はゼロ、社会の常識と一致するのは「相手を攻撃する場面だけ」という行動パターンが窺われる。文字通り「情性欠如者」の(心中の)実態が、あからさまに露呈されていると」いえよう。ではいったい、その「学習障害」は何に起因するか。常識的には、宅間守の「先天的な脳機能障害」と考えられるが、再び私の独断と偏見によれば、乳幼児期3歳までの「養育歴」にある。「鑑定書」の「第五章 診断 発達と人格」では、〈宅間守の親類が鑑定人に語った内容と宅間守が述べたことから考えると、幼少期から相当に特異な行動をとる子供であった。2,3歳ころから5,6歳までに、まず過度の落ち着きのなさがあった。繰り返し迷子になり警察に保護されたり、道路の真ん中を三輪車で走ったり、映画館から一人で抜け出し渋滞の道路を横切るなどの向こう見ずで無鉄砲な行動があった〉と述べられているが、肝腎の2,3歳までの様子については触れられていない。前述したように、鑑定人は「まえがき」で〈また、幼少期にネグレクト(親による育児放棄)があった可能性もありますが、そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした。〉とあるが、その判断の基準・根拠はどこにも述べられていない。宅間守の父親は、『殺ったのはおまえだ』(「皆殺しを謀った男の父が語る『わが闘争』ー大阪「池田小」児童殺傷事件・今枝弘一・「新潮45」2001年12月号)の中で、以下のように語っている。①〈あれの母親が妊娠したのに気付いたとき暗い顔で言うのよ。「子供できたんだけどどないする?」って。ワシはもちろん、「よっしゃ、よおでかした、生むで。女でも男でもどっちでもかまわん。子供は一人より兄弟いたほうがよろしで」と妻をほめてやった。しかしあいつはよ、信じられんこと言いよった。「あかんわ、これ、おろしたいねん私。あかんねん絶対」かたくなやったであいつは。〉②〈ともかくあれ(妻)は頑固者でな、最初の時の子もそうだがおっぱいをやるのをいやがったのじゃ。妻がまったく母乳をやらないのを見て、どうか初乳だけはやってくれ、それをしないと赤んぼが健康に育たない。初乳は縁起物だと思えやと、おばあちゃんたちがあんまりひつこく説得するので泣く泣く一度だけ皆の前で乳首3を赤んぼの顔におしつけとった。それっきり家に戻ったらやらなくなったで〉③〈まあ、悪口になるのは心もとないが、あいつは家事全般できん女やった。洗いものぐらいたまにするが、炊事も片づけも苦手な女じゃったよ〉。それが事実なら、「幼少時にネグレクト(親による育児放棄)があった」ことは明らかであり、母親の「母性欠如」が宅間守の「情性欠如」を招いたこともまた自明であろう。
 にもかかわらず、鑑定人は「そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした」という。なぜだろうか。(2013.6.28)