梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「残菊物語」(監督・溝口健二・1939年)

  原作は村松梢風、五代目尾上菊五郎(河原崎権十郞)の養子・二代目尾上菊之助(花柳章太郎)の物語である。冒頭は歌舞伎座の楽屋裏、これから「東海道四谷怪談」隠亡堀の場が始まろうとしている。有名な「戸板返し」後の「だんまり」で、菊之助は与茂七を演じたのだが、直助役の菊五郎は、いたって不満足、「ダイコ」(大根)役者だと決めつける。火の玉(人魂)の扱いまでもなっていないなどと当たり散らす始末、周囲の連中は「二百十日」(の嵐)が来た、などと閉口していた。直ちに菊之助を呼びつけ叱ろうとしたが、守田勘弥(葉山純之輔)が間に入ってなだめ、取り巻きも「たいそうよくできた」と褒めそやす。。菊之助は仲良しの中村福助(高田浩吉)にも「できはどうだった?」と訊ねるが口を閉ざされ、「柳橋に繰り込もう」と誘うのだが「先約がある」と断られた。独りで柳橋に向かったが、待合の客(結城一郎)たちも、菊之助の「大根振り」を肴に酒を酌み交わしている。馴染みの芸妓(伏見信子)にも振られたか、深夜、人力車で帰宅の途中、弟の子どもを子守している乳母・お徳(森赫子)に出会った。お徳は、入谷の伯母が菊之助の芸をけなすので、今日観てきたという。「それでどうだった?」「世間のおだてやお世辞にのってはいけないと思います。伯母の言う通りでした。あなたは、いずれは六代目を継ぐお方、御贔屓衆と遊ぶのはほどほどに、芸の修業に励んで下さい」。その一言に、菊之助は「ありがとう。そう言ってくれたのはお前が初めてだ」。以後はプッツリと遊びを止め、お徳を相談相手にする。しかし、その様子を見咎めた周囲が黙っていない。義母の里(梅村蓉子)はお徳に「お前は使用人の分際で余計なことをおしでない。菊之助の嫁になってこの家に入り込む魂胆だろう」と言い、すぐさま隙を出した。お徳が居なくなったことに驚いた菊之助は、お徳の実家を訪ねるがそこにも居ない。雑司ヶ谷に居ることを突き止め、鬼子母神の境内でようやく再会できたのだが、それ以後は全く音信不通になった。
 菊之助は覚悟を決めた。母や兄に向かって「親の七光りで人気が出てもしょうがない。六代目の名跡もこの家も要らない。あっしは独りでやっていきたいんだ」と言う。その言葉を隣室で聞いていた菊五郎が激怒した。「そんな奴は、今すぐ、ここから出て行け!」
 かくて、菊之助は大阪へ・・・、叔父・尾上多見蔵(尾上多見太郎)の下で1年修業する。しかし、評判は散々でうだつが上がらない。多見蔵に「叔父さん、不出来な舞台ばかりですみません。このまま御厄介になっていてよろしいのでしょうか」と問えば「何を言うてんのや。若い時に褒められるような奴はろくな役者になれへん。大船に乗ったつもりでしっかりやんなはれ。多見蔵がついているがな!」と励まされた。しかしまだ心は晴れない。鬱々として表に出ると、お徳が待っていた。菊之助の舞台を観ていたのである。夢ではないかとびっくりする菊之助、「なぜ、もっと早く来てくれなかったんだ」「家の者が厳しくて出られなかったんです。でも若旦那の不評判を聞いて、居ても立ってもいられなくなって来たんです」「あっしは自惚れていた。1年経ってもこのざまだ」。だがお徳の反応は、1年前のあの時とは変わっていた。「他の人が何と言っても、(今日の舞台で)あたしには1年間の苦労が見えました。東京での甘えが消えて、若旦那の力が出てきたんです。だから、これからも頑張ってください」。「そうだろうか、そうだといいんだけど」菊之助には一筋の光りが見えた。「そうですとも」とお徳の力強い相槌が支える。
 二人はその足で、菊之助の貸間に赴いた。「荷物はどうした」「駅に預けてあります」「じゃあ、明日取ってこよう」「ここで御厄介になってもよろしいんですか」「今から、夫婦じゃないか」「あたしは若旦那を立派にしてお宅にお返しするために来ました」「その後はどうする?」「さあ、わかりません」「来たばかりで水くさいことを言うもんじゃないよ」。見る見る、菊之助には大きな力が湧き出してきた。数日後か、貸間に豪華な鏡台が届く。貸し主の按摩元俊(志賀廼家辨慶)が二階に運び上げようとするが上がらない。菊之助は、一階に降りてつくづくと眺め「いい鏡台だ」「いいお芝居のためにはいい鏡台が要りますわ」「お金はどうした」「あたしがいらない物を売ってこしらえました」「・・・すまないね」、元俊の娘・おつる(最上米子)が「おとっつあん、わてもこんなんほしいわあ」と羨ましがっているところに、菊之助の弟子(橘一嘉)が飛び込んで来た。「大変です!親方がさっき亡くなりました」。かくて、菊之助は、多見蔵という大阪での大きな後楯を失ってしまう。
 菊之助は、お徳の反対を押し切って「旅回り一座」の太夫元(石原須磨男)に身を預けることに決めた。
 そして4年が経った。一座では金をめぐってもめ事が絶えない。その様子を見て、お徳は「ああ、いやだいやだ、早く旅回りから脱け出したい」と愚痴をこぼす。菊之助は「お気の毒だね。こんな男にくっついて来たのが因果だ。いやなら出て行ったっていいんだぜ。わっしはこっちの方が面白いんだ。目をむくだけでお客は喜んでくれる」「あなたはずいぶんお変わりになりましたねえ」「また意見かい、意見ならもうたくさんだ」。二人の間にも亀裂が生じたか・・・。
 ある雨の晩、突然どやどやと女相撲(白妙公子)の連中がやって来て、小屋を壊し始めた。菊之助は「何するんだ!」と止めようとしたが、太夫元はドロン、一座はバラバラになる。菊之助とお徳は、行くところもなく名古屋の木賃宿に辿り着いたのだが、お徳の咳が止まらない。初めは、雨に打たれたからと甘く見ていたが、病は刻一刻と進行する。そんな折、宿の客が芝居のチラシをもらって来た。見ると、「中村福助一座公演」と書いてある。菊之助は一瞥するだけで終わったが、お徳は一座の楽屋を訪れて懇願する。「どうか、若旦那を舞台に立たせてやってください」。その気持ちが通じたか、一同は同意する。しかも、もし人気が出たら、東京の舞台に出られるよう菊五郎に進言するという話まで取り付けた。その代わり、「お徳さん、あんたの役目は終わった。その時は身を引くように」。それでも、お徳は喜んで木賃宿に戻り、菊之助に知らせる。半信半疑だったが、菊之助も促されて舞台に立つ。演目は「関の扉」、役は福助の代わりの墨染であった。その菊之助の舞台姿に一同は、そして、観客は目を見張る。五年間の苦労が花を結んでいたのだ。
 菊之助は、晴れて名古屋から東京に向かう。しかし、そこにお徳の姿は見られなかった。必死であちことと探し回る菊之助に福助の父・中村芝翫(嵐徳三郎)が言う。「お徳は、自分から身を引いたのだ。そっとしておいておやり」。
 独り、大阪のなつかしい貸間に戻ったお徳は、誰もいない二階の部屋にうずくまっている。按摩元俊の娘・おつるが戻ってきてその姿を見つける。驚いて「まあ、姐さん、どないしていやはった。でもお達者で何よりや。それで菊さんは?」・・・「とっくに別れたわ。あんな男と一緒に居るの面白くなくなったのよ」「しばらく会わんうちに、姐さん、すっかり変わりはりましたなあ」「そうかしら、そうね、少し変わったかもしれないわねえ」
 菊之助は東京での公演も大成功、菊五郎と共に大阪公演(初下り)に赴く。公演の演目は「石橋」、菊五郎、菊之助、福助が連獅子の舞を厳かに、かつ艶やかに披露する。大入りの観衆が大喝采の拍手を贈るうちに幕は下り、「船乗り込み」が始まろうとする時、人混みを分けて按摩元俊がやって来た。入梅以後、お徳さんが身体をこわして、医者から「あぶない」と言われているとのこと、菊之助はすぐにでも飛んでいきたい素振りだが、「わっしには大事な仕事があるんで・・・」と戸惑うと、近くに居た菊五郎が言う。「菊、行ってやんねえ。女房に会ってきてやんな。役者の芸ってのはな、いくら教えたって上手になれるもんじゃあねえ。おめえがこれまでになったのは、お徳が骨身を惜しんで励まして、修業させてくれたおかげなんだ。おらあ、菊之助の親爺として礼を言ったと言ってくんねえ」
 大詰めは、懐かしい貸間の二階、(臨終間際の)お徳の手をとり菊之助が言う。「お父っつあんが許してくれたんだよ。女房に会ってこいと言われた。礼を言ってくれと言われた」「本当ですか」とお徳は涙に暮れる。そして「早く、船乗り込みに言って下さい」と言う。
 中之島から乗り込んだ菊之助が、周囲の観客に大きく手を広げ、頭を下げる。その心中にお徳の姿を思い浮かべ、再び頭を下げたとき、お徳は息を引き取ったのである。そして画面には「完」という文字が・・・。


 この映画の眼目は、女の献身的な母性が、男の苦労を支え、その苦労が男の実力を磨き上げるといった「人間模様」の描出であり、単なる悲劇(メロドラマ)とは無縁の名作であることがよくわかった。
 見どころの一は、菊之助を東京に送り出し、大阪の貸間に戻って「とっくに別れたわ。あんな男と一緒に居るの面白くなくなったのよ」というお徳の一言である。それは本心ではない。菊之助という役者(男)を育て上げた、お徳という女が打った最初で最後の一芝居(「愛想づかし」)なのである。菊之助はお徳との「つながり」が原因で、東京を追われた。また今の「つながり」で菊之助の評判に傷がつくようなことがあれば、元も子もない。そうした思いが、お徳を「空芝居」にかき立てたに違いない。
 見どころの二は、お徳に感謝する菊五郎の心根である。それは終局の「菊、行ってやんねえ。女房に会ってきてやんな。役者の芸ってのはな、いくら教えたって上手になれるもんじゃあねえ。おめえがこれまでになったのは、お徳が骨身を惜しんで励まして、修業させてくれたおかげなんだ。おらあ、菊之助の親爺として礼を言ったと言ってくんねえ」というセリフに結実化している。その言葉を聞いて、私の涙は止まらなかった。
 見どころの三は、菊之助を演じた花柳章太郎の「男振り」であろうか。並み居る役者連中の中で、やはり光っている。えもいわれぬ色香を漂わせている。さすがは、新派の大看板、後には「人間国宝」「文化功労者」に数えられる逸材の片鱗を見せているのである。
 見どころの四は、スクリーンに再現される戦前大歌舞伎の舞台模様の数々である。長回しのショットで、往時の「東海道四谷怪談」「関の扉」「石橋」を存分に鑑賞できたことは望外の幸せであった。感謝。
(2017.6.23)