梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「浪華悲歌」(監督・溝口健二・1936年)

 ユーチューブで映画「浪華悲歌」(監督・溝口健二・1936年)を観た。19歳の女優・山田五十鈴主演の傑作である。冒頭は、薬種問屋の主人・麻居(志賀廼家弁慶)が、けたたましい嗽いの音を立てて洗面・歯みがきをしている。タオルで顔を拭きながら縁側に出る。女中に「このタオル、しめってるがな」。朝の太陽を仰ぎながら「商売繁盛、家内息災」、やがて朝食。茶を啜ると「ああ、苦い」、「卵がない」「海苔がない」、女中の手を見て「汚い」、小言が止まることがない。「あれは、どうした。すみ子は?」「へえ、頭が痛いと寝ておいでです」「昨日は何時頃帰った?」「2時頃です」。女房のすみ子(梅村蓉子)はまだ蒲団の中、隣には子犬も寝ていた。麻居はこの家の養子、すみ子に頭が上がらず、その鬱憤を女中連中にぶつけているのである。そこに、医師・横尾(田村邦男)が訪れた。すみ子の診察に来たのである。結果は異常なし、麻居は横尾に愚痴をこぼす。「おもしろうないわ」。すみ子が起きてきてすぐにでも出かける様子、「なんや、お前また出かけるんか」。すみ子は平然と「婦人会に行かななりませんし・・・」と言い、一向に意に介さない。麻居は横尾に「なあ君、夫婦もこうなったらおしまいやな」と言う。横尾は「しょうもないこと言いなさんな」と取りなした。麻居が若い頃を思い出し「あなた、なあに」と呼び合いたいと言えば、どこぞに若い娘を囲ったらいい、と言う。「お前はやきもちをやくんやろ」「あほらしい、あんたは養子、そんな甲斐性があるかいな。そやそや昨日、婦人会の仕事を手伝わせたさかい、この芝居の切符、西村にあげたろ」と、すみ子はさっさと出て行く。西村(原健作)とは、この問屋の店員である。すみ子が西村に近づくと、その様子を電話交換室から目ざとく見つけ、すぐに西村に社内電話するのが、この映画の主人公・村井アヤ子(山田五十鈴)であった。彼女はこの店の電話交換手、西村と一緒になりたいと思っているが、家庭では、父・準造(竹川誠一)が300円(現在の約200万円余り)の借金を負って逃げ回っている。退勤後、アヤ子は西村を誘い、そのことを相談するが「何ともならへん」と頼りない返事、力を落として帰宅すると妹の幸子(大倉千代子)が一人、借金取りに囲まれて困っていた。借金取りの会社員(橘光造)は、「横領罪で告訴する」と脅したが、アヤ子は平謝りして、その場は収まった。まもなく準造が釣り堀から戻る。アヤ子は夕食を食べながら父を責め立てる。「株なんかに手出すからこんなことになるんや。甲斐性なしの親持つとろくなことあらへんわ。こんな親ならいない方がマシや」。父は激昂し「アホ!誰のおかげで大きくなったんだ。そんなにイヤなら出て行けばいいんや」。その言葉を聞くと、アヤ子は「ほんじゃ出て行くわ」と、幸子が必死に止めるのを振り切って、飛び出していく。
 かくて、アヤ子は店も辞め、行方知れずとなったが、「灯台下暗し」彼女は、ちゃっかりと店主・麻居の「囲い者」に納まってしまうのだ。以後は、自由奔放な「男遍歴」を展開、助平で自堕落、いくじなしの男たちが、次々と「食い物」にされる景色は痛快であった。まずは、麻居。アヤ子に豪華なアパートを与え、300円も調達する。文楽座で密会中、医者の横尾夫妻と観劇に来ていた女房・すみ子とバッタリ鉢合わせ、その窮地は、たまたま居合わせた友人の株屋・藤野(進藤英太郎)の機転で救われたが・・・。別の日、アパートで発熱、横尾を呼んだが、横尾は本宅に駆けつけ、真相がばれてしまった。アパートに踏み込んだすみ子がアヤ子に向かって「あんたも、こわい人やなあ。主人を誘惑するなんて。二度と会ったら承知しませんで!」「フン、頼まれても会いまへんわ」。アヤ子の目的は、父を救うための300円、もう麻居は「用無し」となったのである。アヤ子は西村と所帯を持つことを夢見て、会いに行く。その途中の駅で妹の幸子に会った。幸子の話では、兄の弘(浅香新八郎)が家に戻っている。まもなく大学を卒業、就職も決まっているが、学費が払えない、どうしても200円(現在の150万円弱)要るとのこと、「姉ちゃん、何とかならんか」。「そんなこと知るか」「姉ちゃん、家を飛び出したりして、兄ちゃんボロクソに言ってたで」「わてには、わての考えがあるんや。偉そなこと言うなチンピラのくせに」。幸子も「ほな、放っとくわ」と立ち去った。アヤ子はしばし考えて留まっていたが、思い直して西村との待ち合わせ場所へ・・・、しかし西村の姿は現れなかった。
 次に「食い物」にされたのは株屋の藤野、アヤ子に200円の小切手を渡して料亭に繰り込む。西村が「あんたとは縁があったんや」と迫ると「悪縁や」と言っていなす。なおも、しつこく絡んでくるのでアヤ子はさっさと帰り支度を整え、「あんたは、ここにゆっくりいなはれ。姉さん、この旦はんに馴染みの芸者を呼んで・・・」「何だ、取るもの取っといて、わしゃ許さへんぞ!」と怒り出す藤野を残して出て行った。その足で、西村に電話、アパートに来て欲しいと誘った。喜んで飛んで来た西村に、アヤ子は(自分は囲い者になっているという)真相を打ち明ける。「ええっ?」と西村が驚いているところに、藤野が怒鳴り込んできた。「金を返せ」と言うのだろう。アヤ子は少しも動じず「あんたもエライしつこい人やな、あきらめてお帰り、たかが2,300ばかりで、相場が外れたと(思えばいいこと、大騒ぎしなさんな)」「そうはいかんで」というと、後ろ向きの西村を用心棒に見立てて「ややこしくならんうちに、さあ、お帰り、お帰り」と追い出してしまった。西村はビビりまくり「アヤちゃん、ボク帰らしてもらうわ」「エッ?・・・」。西村がドアを開けると、外に刑事が立っていた。二人は、鬼刑事とおぼしき峰岸(志村喬)の取り調べを受ける。「罪を憎んで人を憎まず、が法のたてまえ、正直に本当のことを言って、謝りなさい」「あの人と一緒になりたくてしたんです」「あの男に指図されたんだろ?」。峰岸はそれを確かめに西村を調べるが、とてもそんな様子は見られない。「あの女に踊らされていたんです。あんなおそろしい女だとは知りませんでした。騙されたんです」。隣室でアヤ子はその言葉を聞いた。表情は、一瞬凍りつく。峰岸が戻ってきてしみじみと言う。「おまえは大した女だなあ」「そうでっしゃろか」先に釈放される西村の背中に「進さん!」と声をかけたが、反応はなかった。
 翌朝か、翌々朝か・・・、父・準造がアヤ子の身柄を引き受けに来た。「今回は初犯だから・・・」という峰岸の言葉に準造は平謝り、アヤ子は父と家に戻ったが・・・。幸子と弘が夕食のすき焼きを食べている。アヤ子も席についたが、皆、無言である。とりわけ、父はうつむいて、何かを必死にこらえている。「どうしたんねん、みんな口も聞かんと」。弘が口を開いた。「お前みたいな不良は、兄弟でもなんでもあらへん」。昨日の一件が、新聞で取り沙汰されて、幸子は学校にも行けなくなった、弘は「家を出て行け」と言う。父までもが「警察のお世話になって、留置場に泊められて、この親不孝者」と呟いた。
その言葉を聞いて、アヤ子は「よう言わんわ」と懐かしい家を後にした。
 橋の上に佇み、水に映るネオンに目をやアヤ子、たまたま通りかかった医者の横尾が声をかけた。「どないしたんや、何してるんや、こんな所で」「野良犬や、どないしていいかわからへんねん」「病気と違うか」「まあ、病気やな。不良少女っちゅう立派な病気やわ。なあ、お医者はん」「何やねん」「こないなったオナゴは、どないして治しはんねん?」「さあ、それにはボクにもわからんわ」。
 アヤ子は歩き出す。その姿、上半身、そしてキッとした顔が大写しになり「終」となった。
 この映画の眼目は、一人の生娘・アヤ子が、強がりばかりで「いくじなし」の父親と、体面ばかりの兄のために、助平で「いくじなし」の店主と助平で「けちくさい」株屋を手玉にとって、捨て身で助けようとしたのだが、その気持ちがほとんど通じない。「いくじなし」の恋人にも裏切られ「どないしていいかわからへん」、あげくは、世間から「不良少女」というレッテルをはられ、医者にも見放された。《にもかかわらず》前に進んでいくんだ、という一途な女の「心もよう」を描出したかったのではないだろうか。言い換えれば、男の「いくじなし」「身勝手」に対する挑戦であり、覇気である。それは次作「祇園の姉妹」に着実に引き継がれていく。ほぼ同じ俳優が、所を京都に変えて演じるドラマ(人間模様)もたいそう見応えがあった。
 ところで、アヤ子が警察に拘引された容疑は何だったのだろうか。アヤ子の「詐欺」?、西村の「脅迫」(美人局)?、それとも未成年の「不純異性交遊」の補導?、いずれにしても、訴えたのは株屋の藤野という、いっっぱしの男である。その自堕落で間抜けな助平根性が、一人の生娘を「不良少女」という「立派な病気」に仕立て上げるのだから、救いようがない。その不条理を告発することこそが、女性映画の巨匠・溝口健二監督の「ねらい」だったかもしれない。それにしても、若き日の山田五十鈴は、すでに風格十分で他を寄せつけない「存在感」を示していた。戦後では「非行少女」(監督・浦山桐郞・1963年)の和泉雅子、「事件」(監督・野村芳太郎・1978年)の松坂慶子、大竹しのぶ、「疑惑」(監督・野村芳太郎・1982年)の桃井かおりといった女優が思い浮かぶが、その貫禄においてはまだまだ及ばないことを確認した次第である。そう言えば、「疑惑」には山田五十鈴もクラブのママ役で出演、法廷の場面で(その空気に臆することなく)ホステス役(被告人)の桃井かおりを叱りつけ、弁護士役の岩下志麻に「啖呵を切って」黙らせる迫力は、さすがに年輪を重ねた、大女優ならではの「女模様」であったと、私は思う。
(2017.6.19)