梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「恋も忘れて」(監督・清水宏・1937年)

 ユーチューブで映画「恋も忘れて」(監督・清水宏・1937年)を観た。横浜のホテル(実際はチャブ屋)で働く一人の女・お雪(桑野通子)とその息子・春雄(爆弾小僧)が、様々な「仕打ち」を受ける物語(悲劇)である。
 筋書きは単純、お雪はシングルマザー、一人息子の春雄(小学校1年生)を立派に育て上げようと、水商売に甘んじている。しかし、その生業が災いして春雄は孤立、かけがえのない命を落としてしまう。それだけの話だが、見どころは満載、寸分の隙もない演出が見事である。
 その一は、女優・桑野通子の「魅力」(存在感)である。冒頭、港町の路地を、お雪が日傘を回しながら歩いていると、向こうから春雄の上級生・小太郎(突貫小僧)が駆けてきた。呼び止めて「坊や、坊や、ウチの春坊は?」と問いかけると「春坊?オレは春坊の守っ子じゃあねえやい」と過ぎ去った。その後姿を見送りながら「・・憎っくいガキだね」と呟く。その一言で、お雪の素性が露わになる。すれっからしの商売女、金に不自由はしないが、世間からは受け入れられていない。お雪は世間と闘っているのである。その足で職場に赴くと、女給連中を集めて、上司のマダム(岡村文子)に談判(団体交渉)をする気配である。「借金に縛られた上、衣装は自前、食事も自前、これじゃやっていけないわ。衣装代の半分くらいは払ってもらおうよ。もしダメなら、お客さんの飲んだビール代から何割か回してもらおうよ」。一同は大賛成、早速マダムと掛けあうが、マダムの回答はゼロ、「そんな言い分があるんなら、観光船のいい客ばかりでなく、油に汚れた石炭臭い連中にもっとサービスして、客を増やさないか。イヤなら辞めてもらっていいんだよ」。一同はがっかり、お雪は「あたし、今日は休むよ」と、プイと帰宅してしまったが、春雄の姿を見ると「やっぱり稼がなくては」と思い直し、ホテルに戻る姿がいじらしい。また、春雄をいじめから守ろうと転校させる。連れだって登校する途中で、春雄が「もういいよ、自分一人で行けるから」「どうして?」「もう、大丈夫だよ」、自分の派手な洋服姿がまずかったのかと帰宅して、しみじみと鏡を見つめる姿も「絵になっていた」。外に向かっては突っ張り、子どもに対しては優しい母性愛、そのコントラストを桑野通子は鮮やかに描き出すのである。加えて、用心棒・恭助(佐野周二)との「色模様」も格別、あくまでも、あっさりと淡泊に、まさに「恋も忘れて」男を惹きつけるのである。
 その二は、春雄を演じた爆弾小僧と、彼を目の敵にして虐める小太郎役・突貫小僧の「対決」である。船着き場の倉庫が彼らの遊び場だ。春雄がロープを吊したブランコに乗っていると、小太郎がやって来て「誰に断って乗ってるんだ、お前この頃生意気だぞ」「誰にも断らないよ」「オレに断ってもらいたいね」「お前に断ればダメだっていうだろ、だから断らないよ」「ああ、そうか」という《やりとり》で二人の対立が始まった。体力的には明らかに小太郎の方が優っている。しかし、春雄は負けていない。小太郎はブランコを独占、下級生に押させていたが、春雄が「オーイ、みんなウチに来ないか、お菓子ごちそうしてやらあ」と呼びかけると、「何、菓子がある?行ってやらあ」と真っ先に反応したのは小太郎、二階のアパートに続く階段で、下級生が昇ろうとすると「オレが先頭だ」と押しのける、先頭の春雄が「オレは?」言うと「お前はいいよ」と先頭を譲る。どこか抜けていてユーモラスな小太郎の風情は格別であった。部屋に入ると洋風のきらびやかな景色に「お前のウチ、金持ちだなあ」と小太郎は驚く。春雄は得意になって「この、母ちゃんの香水かけてやらあ、高いんだぞ」と、みんなの洋服に香水を振りまいたのだが・・・。翌日、みんなは「家に帰って怒られちゃった。あんなお母さんの子どもとは遊んではいけない」と口々に言う。かくて、春雄は孤立、転校の身となった。そこでも新しい友だちができかかるが、小太郎が邪魔をする。春雄は学校をサボって海に行く。そこで中国人の子どもたちと仲良くなり、倉庫の遊び場に誘ったが、またまた小太郎が登場、追い払われてしまった。この小太郎と春雄の「対決」が悲劇を招くことになるのだが・・・。
 その三は、ホテルの用心棒・恭助(佐野周二)のダンディ気質である。彼は、マダムに指示されて、お雪の動向を監視する。最近、女給のB子が神戸にドロンしようとして発覚したばかり。つきまとう恭助に向かって、お雪は「毎日、御苦労ね。部屋に入って休んでいかない?向こうの《灘の生一本》があるわよ」。恭助はお雪の部屋に入る。ベッドで寝ている春雄に目をやると、「可愛いでしょ、あたしの子どもよ。この子を立派な大人に育てることが生きがいなの」「可愛いなあ、可愛いってことが何よりの親孝行だよ」。お雪から舶来のウィスキーを注がれて一気に飲み干すと「それじゃあ、失敬する」「もう一杯どう?」黙って、二坏目を飲み干すと「サヨナラ」と言って出て行った。思わず、「カッコいい」と唸ってしまう名場面であった。
 観光船が入ってきた。ホテルは外人客で大賑わい、お雪も外人客と踊っていたが、この客がしつこくて離さない。「離して!」と悲鳴を上げると、恭助が飛んで来てその外人客を殴り倒す。その場はおさまったが、マダムは怒り心頭「大事なお客に何てことするんだい、もうお前は用無しだよ」。夜の道をお雪と歩きながら「悪かったな」「あたしは嬉しかったわ。あたし一人のために助けてくれたの」「あんたの坊やのためだよ」「ますます、嬉しいわ」・・・「じゃあここで失敬するよ」「ウチに寄ってかない」「向こうの《灘の生一本》はあるかい」「まだ残っているわよ」。そして部屋の中、眠っている春雄を見つめながら「あんたも、この子のために早く足を洗うんだな」「まだ、借金があるの。それともドロンしろって言うの?私を連れて逃げてくれるの?」。まじまじと見つめ合う二人・・・、「まあ、よく考えておくよ」と行って恭助は立ち去った。波止場に「人夫募集」という貼り紙があった。恭助はカムチャッカ行きの船に乗り込むことを決意したのである。
 そのことを知らせに、恭助がアパートに行くが誰もいない。「書き置き」をして帰ろうとすると、ずぶ濡れの春雄がドアを開けるなり、倒れ込んで来た。驚いてベッドに運び込む。春雄は今日一日、雨の中をさまよい、例の倉庫に居たところを、小太郎に見つかり叩き出されて来たのだ。「坊や、しっかりしなきゃダメだよ」と励ますうちにお雪も戻って来た。医者を呼んで診察してもらう。「雨に濡れたんでしょう。これ以上発熱すると肺炎になるおそれがあります。安静にしてください」。恭助はホッとして、「春坊、ケンカに負けたんだろう」「お母ちゃんの悪口を言うんだもの」「お母ちゃんの悪口を言う奴なんてやっつけてやるんだ。男は強くならなくちゃ」「負けるもんか」という言葉を聞き、恭助は最後に「強くならなくちゃダメだぞ」と念を押して帰って言った。
 お雪が、ふと茶だんすに目をやると「書き置き」が貼られていた。「逃がしてることも、連れて逃げることもできない。俺は大手を振ってお前を迎えに来る」と書かれてあった。
 その四は大詰め、お雪は春雄を入院させるために、マダムに借金を依頼、家に戻ると春雄が居ない。あちことと探し歩き、やっと倉庫を探り当てた。春雄は恭助に「負けるもんか」と言い、「強くならなくちゃダメだぞ」と言われた「約束」を果たすために、小太郎に一騎打ちの闘いを挑んだのである。二人は「組んずほぐれつ」争ったが、最後は、春雄の「噛みつき」が功を奏して、小太郎は泣き出し逃げ去った。しかし、春雄の体力の消耗は激しく、容体は急変して息を引き取る。お雪は激しく泣き崩れた。亡骸に向かって「坊や、お母ちゃんのために闘ってくれて、本当にありがとうよ。だけど、どうしてもう少し我慢してくれなかったの。もう少し我慢してくれれば、きっと恥ずかしくない立派なお母ちゃんになって見せたのに・・・これからお母ちゃんは独りぼっち、どうすればいいいの」と語りかける。やがて恭助がやって来た。変わり果てた春雄の姿を見て呆然、「春坊、カムチャッカの漁場で3年働くことにしてきたんだ。これじゃどうにもなんねえじゃねえか。遅かった」と跪いて涙ぐむ。・・・「でも、春坊。俺、行ってくるよ」と立ち上がり、お雪に「しばらくのお別れだ。これで足を洗いなよ」と封筒を差し出す。「こんなことまでしてくれなくても」とお雪が拒めば、「お前にやるんじゃない。坊やにやるんだ」と、封筒を亡骸の傍に置く。
 それ以上、何も語らずに恭助は去って行った。お雪はなおも激しく泣き続けるうちに、「終」を迎えた。何ともやるせない結末である。
 この映画の眼目は、水商売を稼業とする男や女に対する「偏見」の描出(告発)であろうか。その偏見は子どもの姿を通して現れる。小太郎は春雄に対しては「あんなお母さんの子と遊んではいけないと親に言われた」「お前と遊ぶと親に叱られる」と言い、転校先の子どもには「こいつと遊ぶと親に叱られるぞ」と助言する。子どもたちの背後には、(健全な)堅気の親が厳然と存在しているのだが、彼らは姿を現さない。小太郎たちも芯から春雄を憎んでいるわけではないだろう。親の「偏見」が子どもをコントロールしているのである。それは親の見えない圧力である。「あんな」という一言で済ます圧力である。春雄もまた「母親のために」闘った。その契機が恭助の「おだて」(圧力)だったとすれば、恭助の責任も重い。いずれにせよ、大人同士の「偏見」が子どもに波及し、子ども同士もまた「対立」を余儀なくされるという構図が「悲劇的」なのである。(この映画では)大人同士の対立は「利害」に絡むだけで済むが、子どもの世界では切実・深刻である。友だちができない、ということは自分の存在理由を失うことに等しいからである。春雄は必死に友だちを求め、ようやく中国人の友だちを見つけたが、彼らもまた社会から疎外される存在、追い払われる他はなかったのである。
 監督・清水宏は、「子供をうまく使う監督」として有名だが、この作品もまた、大人以上のドラマを展開している。中でも、春雄役・爆弾小僧(横山準)、小太郎役・突貫小僧(青木冨夫)の「雌雄対決」は見応えがあった。お雪は春雄の亡骸に「どうして、もう少し我慢ができなかったの」と語りかけたが、それが子どもというものである。大人は我慢できるが子どもはできない。そのことを誰よりも理解しているのが、監督・清水宏に他ならないと私は思った。
(2017.6.17)