梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

アリとキリギリス

 イソップ寓話に、有名な「アリとキリギリス」がある。そのあらすじは、以下の通りである。


〈夏の間、アリたちは冬の食糧を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい」と、食べ物を与えることを拒否した。キリギリスは死んでしまう〉(「ウィキペディア百科事典」より引用)


 この話の結末は様々に改竄されているようだが、そのことはあまり重要ではない。また、アリの寿命はキリギリスより長く、食べ物はアリは雑食だがキリギリスは肉食だなどと、生物学的に頓着することも意味がない。
 要は、この話に見られる、アリとキリギリスの「生き様」である。キリギリスは、その日暮らし、明日は明日の風が吹くといった「他力本願」の生活をしているのであり、いわば「狩猟文化」の継承者に他ならない。獲物があれば、自然に感謝し「歌舞音曲」で喜びを分かち合う。一方、アリの眼目は「労働」である。一心不乱に働いて、食糧を備蓄する。しかも、集団のチームワークよろしく「分業体制」も整っている。いわば「農耕文化」の継承者と言えるだろう。したがって、キリギリスよりもアリの「生き様」の方が、高度であり、現代の生活に近づいている。現代は、言うまでもなく、「商工業文化」である。その中で、アリもキリギリスも懸命に生きている。アリの姿は、中小企業労働者、小規模店舗の従業員、ひいては失業者、生活保護受給者にまで投影されるだろう。一昔前なら、無産階級(プロレタリア)などと呼ばれる「低所得者層」である。一方、キリギリスの姿は、それ以外の広範囲な階層に見受けられる。例えば、政治家、弁護士、公務員、学者、作家、教員、医者、大手企業の従業員、芸能人、ジャーナリスト等など、数え上げればきりがない。
 寓話の中のアリとキリギリス同様、現代のアリとキリギリスも「対立」を極めているが、賢明とは言えない。大切なことは、互いの「可能性」を学び合うことである。昭和中期のキリギリス・北原健二は「君には君の夢があり、僕には僕の夢がある。二人の夢を寄せ合えば・・・」(詞・杉本夜詩美、曲・遠藤実)と歌った。しかし、その対象があくまで「若い二人」に限られていたために、結果は「そよ風甘い春の丘」程度で終わってしまったのである。当時と違い今は「超高齢化社会」、街に出ても(私も含めて)「老々男女」の群れが目につくばかり、そよ風も身にしみて、ゴルゴタの丘が待ち構えている様相ではないだろうか。 
 互いの「可能性」を学び合うためには、自分はアリなのか、キリギリスなのか、その立場を明確に「自覚」することが不可欠である。アリ同士、キリギリス同士で馴れ合う不毛さを避けるためである。アリはキリギリスから、キリギリスはアリから学ばなければ「可能性」を生み出せないのだ。次に、相手の話に耳を傾けなければならない。その中に自分との「共通点」ではなく、「相違点」を探すことが重要である。その「相違点」と自分を比べてみる。是か非か。大昔、織田信長は本能寺で「是非に及ばず」(どうしょうもない→実力行使しかない)と言った由、しかし、その意味は、現代では「是でも非でもない」「是非にとらわれることなく」、第三の理念・方法を生み出すことだと解釈すべきなのである。
 現代のアリとキリギリスは、イソップ寓話の轍を踏んではならない。安易な結末を許容してはならない。そのことに留意して、あくことなく働き続け、歌い続け、踊り続けることが肝要なのである。(2017.6.10)