梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「虞美人草」(監督・中川信夫・1941年)

 ユーチューブで映画「虞美人草」(監督・中川信夫・1941年)を観た。冒頭の字幕に「征かぬ身はいくぞ援護へまっしぐら」とあるように、日本が「決意なき開戦」(真珠湾攻撃)を行った年の作品である。原作は夏目漱石の小説に拠る。時代は明治、大学を卒業して2年経つのに、未だに身の固まらない青年たち(27~8歳)の物語である。一人は甲野欽吾(高田稔)、母とは死別、父も客死、甲野家の長男として相続すべき立場だがその意思をはっきりと示さない。家も財産も継母の豊乃(伊藤智子)と妹の藤尾(霧立のぼる)に譲り、自分は放浪したいなどと言う。病弱で痩身、哲学を専攻している。藤尾は24歳、洋風好みで、英語を習いピアノを奏でる。もう一人は、宗近一(江川宇礼雄)、欽吾の親友だが性格は正反対、豪放磊落で「計画よりは実行」を重んじる。外交官を目指しているが資格試験に及第しそうもない。父は、欽吾の父とも昵懇で、一と藤尾の許婚の約束を交わしていたようだ。一にも糸子(花柳小菊)という妹が居る。裁縫が得意で、兄の着物(袖なし)を仕立てたりしている。一は妹を「糸公」と呼んで可愛がっている。そんな様子を見て、欽吾も糸子に好意を寄せている。一と藤尾、欽吾と糸子というカップルが成立すれば・・・それでこの物語は終わるが、そうは問屋が卸さない。藤尾は勝気で「西洋流」、外交官の妻としては申し分ないと一は思っているのに、藤尾は一を嫌っている。試験に落第する男など「まっぴら」ということらしい。そこで、さらにもう一人の青年・小野清三(北沢彪)が登場する。彼は、藤尾の(英語の)家庭教師として甲野家に出入りしている。文学専攻の秀才で、大学を首席で卒業(恩賜の銀時計授受)、現在は博士号取得のため、論文作成に取り組んでいる。藤尾は(母・豊乃も)断然、小野を気に入り、ゆくゆくは(欽吾を追い払い)甲野家の婿として迎えたいという魂胆である。しかし、そうは問屋が卸さない。小野は幼い時両親と死別、京都で養父同然に育ててくれた井上孤堂(勝見庸太郎)という恩師が居るからである。娘・小夜子(花井蘭子)と分け隔てなく育て、ゆくゆくは「小野と小夜子を一緒にさせたい」と井上は考えている。今では妻に先立たれ、娘との二人暮らしを託っている身、頼りになるのは小野だけか・・・、そんな思いで、上京してきたのだが・小野は「心変わり」して、藤尾に惹かれている。
 要するに、宗近一と甲野藤尾、藤尾と小野清三、小野と井上小夜子、甲野欽吾と宗近糸子という「男女関係」がこの物語の骨子である。そして、主人公は、甲野の父がロンドンで買い求めた50万円の懐中時計、今は藤尾の手許にあるが、それを受け取るのは誰か、という筋書きで物語は展開する。
 場面は、①欽吾と一が京都旅行を終え東京に向かう東海道線の車中、そこで偶然にも、上京する井上父娘との遭遇、②甲野家の豊乃、藤尾、欽吾の白々しい対話、③藤尾と小野の親密な出会い、④井上転居宅での小野と小夜子の他人行儀な挨拶、⑤東京勧業博覧会で鉢合わせする欽吾、一、藤尾、糸子の4人グループと小野、井上父娘の3人グループ、⑥小野と井上孤堂の対面、⑦小野との「縁談破談」を申し入れる小野の友人・浅井(嵯峨善兵)と孤堂の討論、⑧浅井から頼まれて小野の下宿を訪れる宗近の侠気、⑨小野の決断と新橋駅での藤尾との訣別、⑩大詰め、藤尾から小野、小野から藤尾、藤尾から宗近へと渡った懐中時計が、暖炉に投げ込まれる瞬間、⑪藤尾の服毒自殺、その訃報(電報)を手にする宗近、といった内容であった。
 見どころは満載だが、中でも法律専攻の浅井と弧堂の「討論」は格別、原作にある以下のセリフが忠実に再現されている。「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」「君は小野の悪口を云いに来たのかね」「ハハハハ先生本当ですよ」「余計な御世話だ。軽薄な」・・・「何だって、そんな余計な事を云うんだ」「実は頼まれたんです」「頼まれた? 誰に」「小野に頼まれたんです」「小野に頼まれた?」「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」「ふうん。もっと精しく話すがいい」「二三日中じゅうに是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」「よし分った。理由はそれぎりかい」「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」「月々金でもくれると云うのかい」「そうです」・・・「君は妻君があるかい」「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物だよ。わしから云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」・・・ 「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢って話して見ますから」「君は結婚を極めて容易い事のように考えているが、そんなものじゃない」・・・「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」・・・「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日あしたからどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来、夫だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯を誤まらして、それで好い心持なのか」「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精しい事情は知らんのですから」「いや、話してくれないでも好い。厭だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家に訳を話すが好い」「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」「小夜の考えぐらい小野には分っているはずださ」「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」「そう返事をして差支さしつかえないだろうね」「先生もう一遍小野に話しましょう」「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」「とにかく……そう小野に云いましょう」(「夏目漱石 虞美人草 青空文庫」より抜粋引用)
 小野同様、浅井も弧堂を師と仰いでいる。その子弟の対話(討論)が、真に迫っていてたいそう面白いのである。
 極め付きは、⑧の場面の宗近と小野の対話、これもまた原作どおりに再現されている。
 「小野さん、真面目まじめだよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合はりあいがない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」・・・「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」「そうかも――知れないです」「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」「ええ」「他人が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」「あなたは羨うらやましいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」「小野さん、そこに気がついているのかね」「いるです」・・・「僕の性質は弱いです」「どうして」「生れつきだから仕方がないです」「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」「救いに……」「こう云う危あやうい時に、生れつきをたたき直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後あとは心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」・・・「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目まじめの味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳かけつけやしない。そうじゃないか、小野さん」「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据すわる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存げんそんしていると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へたたきつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日きのう真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人ひとり真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」「いえ、分ったです」「真面目だよ」「真面目に分ったです」「そんなら好い」「ありがたいです」(「夏目漱石 虞美人草 青空文庫」より抜粋引用)
 この対話のキーワードは「真面目」(真剣勝負)ということである。宗近の「計画よりも実行」という信念に裏づけられて、いかにも説得力がある。かくて、小野真三は藤尾との訣別を決意、恩師・弧堂との約束に応えることができたのである。
 そしてまた、藤尾は「虚栄の毒を仰いで斃れた」。原作によれば、欽吾は小夜子と結ばれ、義母・豊乃とも「和解」する。藤尾が「宗近か、小野か」、小野が「藤尾か、小夜子か」と迷ったことは《喜劇》であり、「生か、死か」、という問題こそが《悲劇》なのだという夏目漱石の「眼目」は、極めて哲学的である。
 「虞美人草」という小説は、1935年、監督・溝口健二によっても映画化されているが、現在そのフィルムは完全な形で残されていない(大詰めの部分が消失している)。しかし、脚色・演出の方法は対照的であるように思われた。展開は、井上弧堂と小夜子の「悲劇」の風情が色濃く、きわめて女性的であった。また、監督・中川信夫の本作品でも、大詰めの場面は原作と異なっている。藤尾が大森に出かけようとして新橋駅で小野を待つ、小野はそこに現れて藤尾に別れを告げる。しかし、原作では、小野は小夜子を伴って甲野家を訪れる。藤尾は小野に会えずやむなく帰宅、そこで欽吾、豊乃、宗近兄妹、小野、小夜子らと一堂に会し、懐中時計の「死」に遭遇するのである。(「宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒あかぐろい拳が空くうに躍おどる。時計は大理石の角かどで砕けた。」・原作)そして、藤尾はその場に卒倒する。こうした場面の描出を中川信夫が避けたのはなぜだろうか。夏目漱石の「哲学的」な結末に比べて、その情景を「映画的」に描出することは困難、もしくは野暮と考えたか。いずれにせよ、夏目漱石の文学よりは「女性的」であることは確かなようである。
 とはいえ、原作にあくまで忠実、「真面目」に映画化を試みた「傑作」であることは間違いない。厭世感をを漂わせた哲学者・甲野の高田稔、磊落で行動的な外交官の卵・宗近の江川宇礼雄、秀才だが気弱な脆さを感じさせる文学者・小野の北沢彪、体面を重んじ世間体を気にする明治上流階級の典型的な女性・豊乃の伊藤智子、新しい時代で自己を貫こうとする藤尾の霧立のぼる、琴を奏で、どこまでもしとやかな小夜子の花井蘭子、兄思いでおきゃん、しかし古風な豊乃に真っ向から対立して憚らない糸子の花柳小菊、お人好しで俗物、損な役回りを平気で引き受ける浅井の嵯峨善兵、時代の流れに置かれていこうとする井上弧堂の勝見庸太郎、同じく宗近一の父の玉井旭洋、宗近とともにロンドンに向かう同僚の龍崎一郎、といった実力者の面々が綺羅星のごとく居並んでいる。まことに豪華絢爛な配役で、余裕派・夏目漱石の作品を飾るには文字通り「適材適所」、見事な出来映えに心底から拍手を贈りたい。
(2017.5.3)