梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

道徳「教科化」の《問題点》・学校教育の《誤り》

 東京新聞朝刊(1面)に、「難しい心の評価 道徳教科化 指導要領改定案」という見出しのトップ記事が載っている。その内容を要約すると、以下の通りである。
①文部科学省は4日、現在は小中学校の教科外活動の道徳を、正式な教科とする学習指導要領の改定案を公表した。
②文科省は「教材を読むだけの読み物道徳から、考え、議論する道徳への転換を目指す」と説明している。
③改定案は「数値などによる評価は行わない」とし、一般教科と区別して「特別の教科」と位置づけた。担任教諭が原則、授業を行い、現行の週1回程度の年間35コマ(小1は34コマ)を維持する。
④各学年の学習内容は、新たに設けた「節度、節制」「親切、思いやり」「国や郷土を愛する態度」「生命の尊さ」などのキーワードごとに列挙した。(以下略)
 今、その学習内容の中から新たに設けたものを「小3・4年」を例にして挙げると、以下の通りである。
①自分でできることは自分でやり、安全に気を付け、よっく考えて行動し、節度のある行動をすること(「節度、節制」)。
②相手のことを思いやり、進んで親切にすること(「親切、思いやり」)。
③わが国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつこと(「国や郷土を愛する心」)。
④生命の尊さを知り、生命あるものを大切にすること(「生命の尊さ」)。
 その他にも、以下のような内容が示されている。
⑤働くことの大切さを知り、進んでみんなのために働くこと(「勤労、公共の精神」)
⑥友達と互いに理解し、信頼し、助け合うこと。(「友情、信頼」)
⑦自分の考えや意見を相手に伝えるとともに、相手のことを理解し、自分と異なる意見も大切にすること。(「相互理解、寛容」)
⑧他国の人々や文化に親しみ、関心をもつこと{「国際理解、国際親善」)
⑨約束や社会のきまりの意義を理解し、それらを守ること。(「規律の尊重」)
⑩美しいものや気高いものに感動する心をもつこと(「感動、畏敬の念」)
 この「学習内容」は合計で20項目示されているが、③⑩の「~心をもつこと」のように「情操」に関するものと、①⑤⑥の「~行動をすること」「~働くこと」「助け合うこと」のように「行動」に関するものが、《混在》している。
 従来は、「特別活動」では「望ましい行動能力」を養い、「道徳」では「豊かな情操」を育てるという区分があったが、その点が極めて曖昧である。また、それらは、いずれも「領域」(の指導)として位置づけられ、「時間を設けて」指導するだけでなく、学校生活全体を通して指導するものとされていた。「行動能力」も「情操」も、「教える」ことはできないからである。一例を挙げれば、教科の学習中に、友達が鉛筆を落としてしまった。「気の毒に」思い(道徳)、拾ってあげる(特別活動)ことができるような子どもを育てることが、「領域」の指導なのである。学校教育は、教科の指導を行いながら、《同時に》「道徳」「特別活動」といった領域の指導も行わなければならないのである。今回の「改定案」には、そうした教育課程の「構造」を無視して、とにかく「教えなければならない」「教えればできるはずだ」といった焦りが感じられる。
 現代の子どもたちが「友達と互いに理解し、信頼し、助け合う」ようになることを望むなら、まず、すべての「教科」の指導において、「数値などによる評価は行わない」ようにすることが《先決》である。以下は、私が2年前に綴った「駄文」である。(2015.2.5)


《学校教育の「誤り」》
  学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、「優秀」「普通」「劣等」に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。「優秀」に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。「普通」の場合も同様に、「優秀」になれない苛立ちと、(油断すると)「劣等に落ちる」不安がつきまとう、さらに「劣等」は、最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには「優秀」「普通」に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の「情緒は安定しない」。本来、児童・生徒に「能力差」があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、「できない」ことは「できない」のである。学校はその「能力差」を認めずに、児童・生徒の成績を「一律」に評定する。成績を評定することによって(「ストレス」を加えることによって)、児童・生徒の「学習意欲」が高まると信じている。しかし、それは「誤り」である。「学習」は、「安定」「安心」に基づいた「好奇心」によって、はじめて「成り立つ」ものなのだ。にもかかわらず、学校がその「誤り」(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの「要請」に応えるためである。社会で役立つ人材を「選別」するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育諸学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で「選別」され、その「結果」を保護者に「通知」される。「劣等」に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、「劣等」は、どんなに努力しても「優秀」になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに「優秀」「普通」「劣等」に選別されており、その資料に基づいて「学級編制」が行われるからである。例えば、「優秀」は7%、「普通」は86%、「劣等」は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の「成績」は、学習が始まる以前から
(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、「からくり」のもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)「誤り」である。さらにまた、②によって、「優秀」「普通」「劣等」の烙印は、駄目を押され、「固定化」する。「中卒」よりは「高卒」、「中退」よりは「卒業」、「高卒」よりは「大卒」の方が「優秀」である、といった(いわれのない)「社会的評価」が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。「学歴」が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に「卒業」(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて「卒業」が認定され「証書」が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。「高卒」「大卒」にしても、学習課目を「本当」に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に「学歴」(卒業証書)を授与することによって、その人物の「社会的評価」(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の「誤り」である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそが「あるべき学校」の姿なのである。(2013.1.14)