梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

《老い》の日々

 昇る朝日を仰ぎ見ながら「今日も一日、無事であれかし」と祈り、その日の終わりには、沈む夕日に感謝する、という毎日を送らなければならない。年寄りの「幸せ」とは、そのようなものであろう。もはや、「やるべき」ことは何もない。ただ、おのれの呼吸が止まらないことを祈るだけなのである。過ぎ去った昔の思い出は「走馬灯」のように、浮かんでは消え、消えては浮かんでくるものの、文字通り「やんぬるかな」、すべては「幻」に過ぎない。今、「できること」も限られてきた。「老い」は率直に認め、平然と受け入れよう。あとは「病」「死」を待つだけだ。ジタバタすることなく、一日、一日を「噛みしめて」生きる。鳥獣草木のように「生き」、そして「死ぬ」ことを「幸せ」と感じなければならない。とはいえ、それは「机上の空論」、私は、今日もまた「昨日(の不始末)」を振り返り、「取り返しのつかない」瑣末事に悶々とする。有神論者は「死ぬことは生きること」と言うが、私にとっては「生きることは死ぬこと」、その愚かさ(極道気質)は未だに払拭することができない。「死」という言葉だけが、浮塵子のように襲いかかる。俗謡には「死ぬこともできずにあなたを想い・・・」(歌・江利チエミ、詞・山上路夫、曲・鈴木邦彦)という一節があるが、「あなた」など、とうてい「想えない」私にとって、待っているのは「認知症」もしくは「鬱」という「病」だけであろう。
(2015.2.1)