梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

暴排条例と「改正」暴対法案、作家や評論家の反対声明に思う

 東京新聞朝刊(24面)に〈暴排条例と「改正」暴対法案 「身分に罰、過剰な正義」作家や評論家が反対声明〉という見出しの記事が載っている。来月にも閣議決定される暴力団対策法「改正」法案、全国で施行されている暴力団排除条例に、作家や評論家が反対、廃止を求める共同声明を発表した、という内容である。〈声明は条例が「自由の死を意味する」と批判。法規制で「表現の自由が脅かされている」と懸念している(田原牧)〉由。声明の記者会見に出席したをお歴々のコメントは以下の通りであった。①辻井喬氏(詩人)「かつて個人情報保護法に対し、言論や表現の自由が侵されると反対した。それが姿を変え、再び現れたと思う」「私も暴力には反対だが、解決には社会全体を健康にすることが先決。それを抜きに法が社会を従わせるという発想は敗戦前の国の考え方と同じだ」②西部邁氏(評論家)「暴力団員になった中学時代からの友人との45年間にわたる物語を数年前、出版した。親友に値した一人だ。そういう私的経験からいえば、とんでもない条例だ」「暴力団は社会の少数派だが、条例には少数派ゆえに彼らを『人間性で劣る』とみなす前提が垣間見える。そうした幼稚な見方、心性がこの条例を支えている。これは『いじめの構造』だ」③佐高信氏(評論家)「無菌状態に近い社会はひじょうに弱い社会だ」「法は行為を罰すべきだが、この条例は身分を罰している」④鈴木邦男氏(民族派団体顧問)「『社会対暴力団』とは、人民を盾にして警察が暴力団対策をすること」⑤田原総一朗氏(ジャーナリスト)「正義なら何をやってもいいという『過剰な正義』くらい危ないものない」「こうした法律がまかり通ってしまう一因にマスコミの弱さがある。批判されないゆえ、警察や検察はいい気になり、過剰な正義に走っている。⑥宮崎学氏(作家)「1970年前後に大量に確保した警察官が退職時期を迎えている。こうした警官を企業に天下りさせるために、暴力団排除の標語が利用されている。」いわば『コンプライアンス利権』だ。いずれのコメントも、(頭の悪い、世間知らずの)私には、わかったようでわからなかった。これらお歴々は、件の「暴力団」自体についてはどのように評価されているのであろうか。「暴力団」は排除してはならない、「暴力団」は社会にとって必要不可欠な存在である、「暴力団」は社会に貢献している、「暴力団」が標榜する任侠道は、日本人にとって大切な道徳である、等とでも考えているのだろうか。だとすれば、そのことこそを、今、はっきりと声明すべきではないだろうか。ちなみに、社会が「暴力団」に下している評価は以下の通りである(と、私は思う)。〈法治国家における無頼の輩が「相互扶助を目的に自己を組織化した」のが「暴力団」である。このような組織は法治国家においても、闇の部分である繁華街、不法移民・就労、売春、賭博、麻薬、興行、ヤミ金融そして昔なら闇市などの分野で持ちつ持たれつ、あるいは搾取する立場のものとして活動している。もともとの任侠は反権力ではあっても、あくまでも暴政に対する対抗や無法地帯において脅かされる庶民を守る、という本来悪い意味を指す言葉では無かったが、実際の日本の暴力団は一般市民にたいする暴力行為、恐喝、闇金融による不法な取立て、覚せい剤密売や不法移民に対する人身売買まがいの行為などの任侠と対極に位置する行為を行っている〉(ウィキペディアフリー百科事典「任侠」の一部より引用)辻井氏曰く「私も暴力に反対だが、解決には社会全体を健康にすることが先決」。では、暴力団を「温存」したままで、どのように「社会全体を健康にする」のだろうか、その方法を伺いたい。また、佐高氏曰く「法は行為を罰すべきだが、この条例は身分を罰している」。身分とは「暴力団員」という地位(肩書き)を指すようだが、その人物は「一般市民に対する暴力行為、恐喝、闇金融による不法な取り立て、覚せい剤密売や不法移民に対する人身売買まがいの行為」を行っているからこそ、「暴力団員」なのではないか。もし、そのような行為とは無縁の人物(例えば私)が「○○組・若頭である」などと名乗ったところで、「暴力団員」という身分になるわけではない。「暴力団員」という身分は、「該当する行為」がなければ成り立たないのである。また、西部氏曰く「暴力団は社会の少数派だが、条例には少数派ゆえに彼らを『人間性で劣る』とみなす前提が垣間見える。そうした幼稚な見方、心性がこの条例を支えている。これは『いじめの構造』だ」。「人間性で劣る」とみなす前提が、幼稚な見方、心性であることに、私も心底から同意・共感する。だが、その前提は、いつ、どこで示されたか。「学業不振」ゆえに彼らを「人間性で劣る」とみなす前提はなかったか。小・中学校時代における「学業不振」から「不良行為」に及び、非行少年という身分を経て、暴力団員へという成り行きは定番であろう。「いじめの構造」は、今、はじまった話ではないのである。では、今回、声明を発表したお歴々の「学業成績」や如何?、はたして「劣等生」のレッテルを貼られた方々ばかりであろうか。「自由の死を意味する」「表現の自由が脅かされる」などと宣う言辞は、おそらく暴力団員の「生活意識」とは無縁、だとすれば、今回の声明たるや何のことはない、作家・評論家らの「有名人」が、おのれの生業(自由?、表現?)を保身するためのプロパガンダだったりして・・・、などという結果に終わらないことを切望する。(暴力団員同様に)身を賭して、彼らを「人間性で劣る」とみなす、幼稚な見方、心性を払拭していただきたい。
(2012.1.25)