梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「コロラド」(監督ヘンリー・レヴィン)は《反戦西部劇》

 映画「コロラド」(監督ヘンリー・レヴィン、原作ボーデン・チェイス、出演グレン・フォード、ウィリアム・ホールデン、エレン・ドリュー、レイ・コリンズ)《「世界名作映画BEST50」DVD・KEEP》を観た。「作品解説書」には以下の通り述べられている。〈グレン・フォードとウィリアム・ホールデンの二大俳優が西部劇で競演するということで公開当時、大変人気のあったテクニカラー映画。監督のヘンリー・レヴィンがこの大作を、大いなる娯楽西部劇として演出している。ストーリーは南北戦争の終わり頃、グレン・フォード演じるオエン・デヴァロウ大佐は非情な行為を犯しコロラドに帰郷した彼は、ウィリアム・ホールデン演じる親友デル・スチュワート大尉も愛している女性、キャロリン・エメットにうまく言い寄ったりしながらも州知事になり、スチュワート大尉も保安官として名声を得てゆく。しかし、ある事件を境にデヴァロウ大佐の狂気に、二人は対立する関係に。ラストはデヴァロウ大佐VSスチュワート大尉となり緊張が高まるが、決闘の末、スチュワート大尉が残り、エメットと共に幸福な日々を手に入れる、といった娯楽大作。(1948年・アメリカ)〉この解説では「大いなる娯楽西部劇」「娯楽大作」などと、しきりに「娯楽」が強調されているが、はたしてそうか。少なくとも、私自身はこの映画を「娯楽西部劇」として「楽しむ」余裕はなかった。グレン・フォード演じる北軍大佐の「狂気」が真に迫っていたからである。南北戦争の終わり頃、彼が犯した「非情な行為」とは、すでに白旗をあげて降伏を表明している南軍兵士(敗残将校一人を残して)を「皆殺し」にしたことである。この行為は法律的にも道徳的にも許されることはないだろう。その源は「敵」(自分に逆らう者)に対する「憎しみだけ」である。「平気で敵を殲滅する」という「狂気」の源は何か。それが「戦争に他ならない」という眼目が、この映画では雄弁に語られている、と私は思う。北軍は南軍に勝った。しかし、戦後のコロラドの状況をみれば、その勝利を単純には喜べない。戦時のヒーローが平時を治めるとは限らないからである。事実、グレン・フォード演じる北軍大佐は、平時のリーダーとしては不適格であった。彼は戦時と平時の区別ができなかったのである。狂気に満ちた戦場での「判断」を、そのまま平和な日常社会に適用したのである。自分は正しい、なぜなら「敵に勝った」のだから。自分に逆らう者は殲滅する、そうしなければ自分を守ることはできない、といった戦時の「確信」が、彼の「狂気」を平時にまで拡大させたのであろう。私たちは「相手を殺したい」と思っただけで、すぐにそれを実行することができるだろうか。「でも殺せない」と思い直すのが、人間の本心ではないだろうか。かつての米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは、「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた。」(『戦争における「人殺し」の心理学・安原和見訳・ちくま学芸文庫』)と述べ、(南北戦争を初めとしたアメリカの近代戦において)最前線の兵士ですら、自らの銃器を発砲する者は15~20%に過ぎなかったことを明らかにしている。だとすれば、このデヴァロウ大佐という「男」、その15~20%の中の一人であったのか。
 というわけで、この映画の眼目が「戦争がいかに人間を狂わせるか」「戦争に勝利はない。勝者であることがすでに(良心の)敗北なのである」という《反戦思想》の描出にあることは明らかである。製作は1948年、にもかかわらず、アメリカ社会は、以後「朝鮮戦争」「ヴェトナム戦争」「イラク戦争」「対テロ戦争」等々、性懲りもなく「敗北への道」を辿っているようだ。現実においては、デヴァロウ大佐が「まだ生きている」ことの「証し」である。
(2010.4.28)