梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「大阪維新の会・家庭教育条例案撤回」は《不毛な対立》

 東京新聞朝刊(24面)に「維新の会 家庭教育条例案を撤回」という見出しの記事が載っている。その冒頭文は以下の通りであった。〈橋下徹大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が、議会に提案予定だった「家庭教育支援条例案」の撤回を決めた。「発達障害は親の愛情不足が原因」などとした内容に批判が相次いだためだ。差別を助長するような規定は問題外だが、行政が家庭内の教育方法に踏み込むことへの抵抗感も強い。条例案が目指したものとは何なのか。(秦淳哉)〉。以下の記事では、条例案の目的は「保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定める」との由、問題はその中身だそうである。曰く、〈十五条では「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」とし「それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与している」と一方的に決めつけた〉。〈十八条でも「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」とまで言い切った。さらに「子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する」と規定。伝統的な子育ての内容は不明だが、まるで子育ての方法が悪いから発達障害になった、と言わんばかりだ〉。これに対して、〈自閉症など発達障害の子どもを持つ保護者会は「偏見を助長する」と抗議。(中略)七日には条例案の「白紙撤回」を決め、美延映夫幹事長が保護者らに陳謝した〉由。市民団体の女性に深々と頭を下げる市議団幹部の写真まで載っている。幹部の姿を見つめる女性(二人)の表情は険しく、心中の「怒りより先にあぜんとした。かつては自閉症の子どもを見た人に、親のしつけが悪いからだと言われた。今も昔と同じ感覚の人がいたことに驚いた」という思いが直截に伝わってくる。しかし、この「市議団」と「保護者会」の対立は「不毛」であり「不幸」なことだ、と私は思う。「市議団」が謝罪する(条例を白紙撤回する)ことによって、「発達障害」「虐待」「非行」「不登校」「引きこもり」といった《家庭教育上の諸問題》が解決できるのだろうか。「市議団」は、少なくとも「発達障害」「虐待等」の予防・防止を試みた。「子育ての知識を学習する機会を親及びこれから親になる人に提供」しようとした。そのことまでも「謝罪」(「白紙撤回)しなければならなかったのだろうか。私の独断と偏見によれば、「市議団」の企図(条例の趣旨)はただ一点、「わが国の伝統的な子育て」の復興にある、と思われる。子育ての第一歩が「乳幼児期の愛着形成」にあることは「いわずもがな」、わが国の伝統的な子育てがその第一歩から着実にスタートしていたことは明白であろう。母乳、添い寝、抱っこ、オンブ・・・、を皮切りに、わが国の親は、乳幼児期が終わる(3歳頃)まで、自分の姿を子どもの「視野」の中に置いていた。(子どもを手放さなかった)そのことで子どもは「安心・安堵」し、「情緒の安定」が図られたのである。しからば、「わが国の現代の子育て」や如何に?、子どもより親の都合が優先され、ミルク、ベビーベッド、バギー・・・を皮切りに、保育所・保育園通いが「あたりまえ」になっていることはないか。そのことが、「乳幼児期の愛着形成」に大きな影響(母子分離不安)を及ぼしていることは否定できないのではないか。たしかに、〈発達障害は脳機能障害によるもので、実際には親の愛情不足とは全く関係ない〉(前出記事)。しかし、子どもの側の要因によって「乳幼児期の愛着形成」が不十分であったことも、事実ではないだろうか。大切なことは、「発達障害」と呼ばれる子どもたちを「どのように育てるか」という視点である。その脳機能障害に対して「わが国の伝統的な子育て」は有効か否か、専門医と連携した現代的な子育ては有効か否か。「市議団」と「保護者会」の対立が、そのような構図の中で展開されない限り、当事者の「子どもたち」は浮かばれまい。悲しい「現実」である。
(2012.5.10)