梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

東日本大震災・《ブッダのことば》

 「ブッダのことばースッタニパータ」(中村元訳・岩波文庫・1984年)に、以下の一節がある。
〈第五 彼岸に至る道の章 一一、学生カッパの質問 カッパさんがたずねた。「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起らないような洲(避難所)をわたくしに示してください。親しき方よ。」師(ブッダ)は答えた。「カッパよ。極めて恐ろしい濁流が到来したときに一面の水浸しにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたくしは、そなたに説くであろう。いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、・・・これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は悪魔に伏せられない。彼らは悪魔の従者とはならない。」
 この教えは、「東日本大震災」を被った人々(私たち)に多くの示唆を与えてくれる、と私は思う。被災者は、文字通り「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々」であり、高齢化社会を形成する日本国民は、おしなべて「老衰と死とに圧倒されている人々」に他ならないからである。
 では今、「この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)」とは何か。ブッダは「それをニルヴァーナと呼ぶ。」ニルヴァーナとは「涅槃」と訳され、その意味は、ウィキベディア・フリー百科事典で以下のように解説されている。
 〈涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる〉(「概説」)。
 また、以下のような記述もある。〈(前略)中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において「安らぎ 声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている〉(「訳」)要するに、(苦しみからの)避難所は、「心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地」であり、「声を荒げないだけで、ニルヴァーナに達しえる」ということである。
 現在、東日本大震災の「避難者数」は、11万9091人とのことだが、その人々が「心の安らぎ、こころの平和によって得られる楽しい境地」に居るとは、とうてい思えない。「避難所」は、まだ「涅槃」ではないのである。では、どうすればよいか。ブッダは説く。《いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと》。「執著」とはどんな意味だろうか。私は勝手にそれを「執着」と読み違えて考える。すなわち、「煩悩の火を吹き消すこと」イコール、「過去への執着」を捨て去ることというように・・・。だとすれば、今、避難所で暮らす人々は、これまでの生活を捨て去らなければならない。慣れ親しんだ土地、家、最愛の人との快適な「平和」は、すでに滅びる運命にあったのだ。《いかなる所有》も幻に過ぎなかったと諦めなさい。諸行無常、色即是空、空即是色。はたして(もちろん私を含め)何人の人々が、そのようなブッダの教えに従うことができるだろうか。だがしかし、その教えに従わない限り、「この(苦しみ)がまたと起らないような洲(避難所)」に辿り着くことがなど、できようはずがないことも確かである。
(2011.5.24)