梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「紳士は金髪がお好き」(監督ハワード・ホークス・1953年・アメリカ) 

 映画「紳士は金髪がお好き」(監督ハワード・ホークス、出演、マリリン・モンロー、ジェーン・ラッセル、チャールズ・コバーン、1953・アメリカ)〈DVD「世界名作映画BEST50 KEEP〉を観た。「作品解説書」では以下の通り述べられている。〈「ナイアガラ」で悪女として登場したマリリン・モンローを、ハリウッドでのセクシー女優NO.1の地位を確立するため20世紀フォックスが苦心して製作した力作である。コメディエンヌとして金字塔を打ち立てた大ヒット作であり、真のモンローを花咲かせた傑作なのだ。共演のジェーン・ラッセルは当時大人気のセクシースターで、公開当時は大変な話題になった。監督は「脱走」のハワード・ホークス、彼の魔法のような演出により、豪華なドラマがコメディタッチに繰り広げられる。当時、コメディにこれだけの製作費を投じるのも映画界の決断。新たなモンローの魅力が生まれスターの仲間入りとなった。(以下略)〉マリリン・モンローとジェーン・ラッセルは、当時のアメリカを代表するセクシー女優、その二人が共演となれば、当然「どちらが魅力的か」という話題になるだろうが、この二人、映画の中では「大変、仲がよい」。しかも、二人の容貌・性格は「正反対」、片や金髪、片や黒髪、片や可憐、片やグラマー、片や拝金至上主義、片や恋愛至上主義・・・。ことごとく両者の見解は「対立」する。それかあらぬか、「魅力」も五分五分、お互いに「自分にないもの」を相手の存在で「補い合う」といった関係が見事に描出されていたと思う。モンローとラッセルは(おそらく)貧民出の踊り子、二人の「相舞踊」はどこに行っても人気の的で、それなりの稼ぎはできるのだが、やはり求めるのは頼りがいのある「男」。その条件、モンローは金、金、金・・・。「お金があれば何でもできる。もちろん人を愛することだって・・・」なるほど、逆に言えば「お金がなければ何もできない。もちろん人を愛することも・・・」ということか。まさにアメリカの価値観、その合理主義は徹底されていて清々しいほどであった。一方、ラッセルの条件は「男らしさ」「かっこよさ」「心意気」、「愛があれば貧乏なんて・・・」という侠気(姐御肌)が感じられて頼もしい。この映画の見どころ(眼目)は、何もかもが正反対な二人が、互いに協力、その違いを「尊重し合う」生き様にあると思われるが、極め付きは以下の二点。その一、アメリカからパリに渡る豪華客船の中、モンローがラッセルの(結婚)相手を物色、乗船名簿を検索して「メイド付、ナントカ三世」という人物に目星をつけた。ディナーでの同席予約に成功、テーブルに先着して相手を心待ちにしていたが、現れたのは、なんと、こましゃくれた「ガキ」(小学校低学年相当の男児)であったとは・・・。その二、モンローが金持ちの老婦人からダイアモンドのティアラを掠め取った廉で訴えられ裁判にかけられた。その被告人をラッセルが「身代わり」で演じる。金髪の鬘を装着、口跡も所作もモンローと「瓜二つ」といった按配で、その「鮮やかさ」に舌を巻いてしまった。キャリアからいえば、ラッセルがはるかに先輩、新人・モンローの魅力を受け容れ、さらに際だたせようという「ゆとり」さえ感じさせる、見事な演技であった、と私は思う。前出の解説では「セクシー女優の登場、コメディタッチの展開」が指摘されていたが、私はそれ以上に、当時(というより開国以来不変の)アメリカイズムといおうか、あからさまな拝金主義と、それに歯止めをかけようとするヒューマンなロマンチシズムの「対立」が、そのままノーサイドでゴールイン(結婚)する筋書(終わり方)に注目する。モンローもラッセルも、アメリカ社会の「価値観」(イデオロギー)を代表(象徴)する人物として描かれていることを見落としてはならないのではないだろうか。
(2010.10.1)