梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

篠山紀信氏の「罪」

 東京新聞朝刊(29面)に「篠山紀信さん略式起訴 墓地のヌード撮影 礼拝所不敬罪も」という見出しで以下の記事が載っている。〈霊園の墓所で女性モデル二人にわいせつなポーズをさせ撮影したとして、東京区検は20日、礼拝所不敬と公然わいせつの罪で写真家篠山紀信さん(69)を略式起訴した。モデルは起訴猶予とした。警視庁は1月、篠山さんがヌード写真集「20XXTOKYO」のために結婚式場や百貨店前など計12カ所で撮影したとして公然わいせつ容疑で三人を書類送検していた。事件は表現の自由をめぐり論議になったが、検察側は、祖先の墓がある市民が不快な思いをした、などとして墓所に絞り立件した。礼拝所不敬罪は、仏堂や墓所などの礼拝所に対し、公然と尊厳を汚す(不敬行為)で、わいせつ事件で適用されるのは異例。篠山さんは、おわびとともに「この事件がきっかけに、創造のエネルギーが抑止され、表現が窮屈になってしまわないだろうか」などとする文書を公表。検察側は「撮影行為に違法性があり、写真集そのものが刑事事件の対象ではない」とし、表現の自由の是非とは無関係と説明している。(後略)〉私の関心は、篠山氏がどのような意図で「墓所のヌード撮影」を行ったか、という一点である。そこで彼の公表した文書(ホームページ)を検索すると、以下のような文章が目に止まった。〈様々な写真家が様々な東京をテーマにした作品を発表しているが、僕は普段見慣れた光景の中に有り得べからざる異物を置くことにより、目から鱗を剥がし、TOKYOが持つ不思議なエネルギーの本質を露呈させようと考えた。その異物がNUDEであり、物である以上、生きた人間のような感情や体温が必要ではなく、マネキン人形のような無表情でどこか他の惑星から降り立ったレプリカントのような無機質さで存在している裸が必要だった。そこには扇情的なポーズのかけらもなく、不思議と近未来の都市を予感させるイメージがあった〉。なんとも、わかったようでわからない「不思議」な説明である。まず第一に、普段見慣れた光景(その一つが霊園の墓所)に置く、「有り得べからざる異物」が「扇情的なNUDE」であるのなら「目から鱗が剥がれる」ような気もするが、「マネキン人形」のような「無表情」、「無機質さで存在している裸」がなぜ必要なのか。感性の違いといってしまえばそれまでだが、もしそうであるなら、その「異物」はマネキン人形そのもので十分ではなかったか。どこかに鑑賞者の「扇情」を煽る意図はなかったか。(私には苦し「言い逃れ」、又は白々しい「居直り」のように感じられる)第二に、その文書では「礼拝所不敬罪」に関して全く言及していない。それは何故だろうか。篠山氏は、この事件が「異例」であること(単なるわいせつ事件にとどまらないこと)を、どの程度理解しているのだろうか。「私自身としては、仏堂や墓所などの礼拝所の「尊厳」などよりは、生きている人間の「尊厳」の方が大切であり、ややもすればその価値がないがしろにされている現状を告発するために、あえて不敬行為(墓所のヌード撮影)を敢行したのだ、といった説明を期待していたのだったが・・・。仏堂や墓所に「尊厳がある」などという(実利主義に堕落した)宗教界の「詭弁」「こけおどかし」(空念仏)に騙されてはいけない。そのような陋習を打破するエネルギーこそが、「近未来の都市」を創造するのである。とはいえ、宗教界を相手取ることは「くわばら、くわばら」、「触らぬ神にたたりなし」といった打算が働いたや、否や?
 篠山紀信氏もまもなく「古稀」、さればこそ「高齢化時代の寵児」として、老獪・耄碌などといった「老醜」とは無縁の創作活動を展開してもらいたい、と私は思う。
(2010.5.20)