梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

仏作って魂入れず・「殺人の時効廃止案」

 東京新聞朝刊(1面)に、「殺人の時効廃止案決定 法制審部会 法相に月内答申へ」という見出しの記事が載っている。その内容は、〈公訴時効制度を見直している法制審議会(法相の諮問機関〉の刑事法部会は8日、人を死亡させた罪のうち、殺人など最高刑が死刑の罪は時効を廃止し、懲役・禁固の罪は時効期間を二倍に延長するとの法改正の要綱骨子案を正式決定した〉というものである。答申の内容は「当然」であり、異存はない。ただし、〈法律を事後につくって処罰することを禁じた憲法39条との関係で時効進行中の事件に適用できるかも主な論点だったが、「時効完成まで逃げ切れば、処罰されないという期待は保護に値しない」と適用賛成が多数を占めた〉にもかかわらず、〈時効完成の事件には適用されない〉とういう結果に終わったことは肯けない。そもそも、今、この時期に公訴時効制度を「見直している」のは何のためか。あの「忌まわしい(足利)冤罪事件」の過ちをを「二度と繰り返さない」ためではなかったか。「足利事件」の解決は、菅谷さんの「無罪決定」では終わらない。〈時効完成まで逃げ切り、処罰されなかった〉「真犯人」を究明し、処罰することこそが、私たちの「社会的・道義的・政治的責任」なのである。憲法第39条の法文は以下の通りである。〈何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任は問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない〉。「足利事件」の真犯人は「既に無罪とされた行為」によって「刑事上の責任は問われない」、よって「時効完成の事件には適用されない」というあたりが、専門家(法制審部会委員連中)の解釈らしいが、その「教条主義」「軽薄さ」には、開いた口がふさがらない。法改正の趣旨は、言うまでもなく《殺人行為に時効はない》という「人権尊重」理念の具現化である。だとすれば、これまでに迷宮入りした「殺人事件」の真犯人にまで新法を「適用」させてこそ、「見直し」の結果になるのではないか。まして「足利事件」は、遠い昔の話ではない。真犯人は今も「健在」、しかも「DNA」という隠しようのない証拠を残しているではないか。もし、憲法第36条によって、「時効完成」の「真犯人」を追及・処罰する道が閉ざされるなら、その「悪法」も改めなければならない。そのことも含めて答申することが、各委員の責任ではないか、と私は思う。「時効完成まで逃げ切れば、処罰されないという期待は保護に値しない」のなら、「時効期待まで逃げ切ったので処罰されない」という期待もまた、保護に値しないのである。答申が「仏作って魂入れず」のような結果に終わらぬよう祈る他はない。
(2010.2.9)