梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

特攻と自爆テロ

 かつて多くの特攻隊員の姿を間近で見つめた、元海軍少尉は、特攻と自爆テロは「全然、違う」と断じながら、「自爆テロ犯の本当の心情は、私にはわからない。彼らにも守りたい伝統や文化、国土があるのだと思うし、命を捨てる苦悩もあると思う。」とも述べている。(東京新聞8月14日朝刊「命とは問いつつ特攻・記憶・20代記者が受け継ぐ戦争・3)
 歴史、イデオロギー、宗教上の視点からみれば、特攻と自爆テロは「全然、違う」かもしれない。しかし、その違いを超えた「ある共通点」を見逃してはいけないと、私は思う。 それは、家族はもとより、自国(民族)の国土、伝統、文化を守るために「命を捨てる苦悩がある」という点である。戦争(戦闘行為)とは、畢竟「人殺し」に他ならないが、それを「自殺」という方法で行おうとしていることが、両者に共通している。 
 米国陸軍中佐デーヴ・グロスマンは「何百年も前から、個人としての兵士は敵を殺すことを拒否してきた」ことを証明している。(「戦争における『人殺しの心理学』・ちくま学芸文庫)戦場では、殺される恐怖よりも、殺す恐怖(罪悪感・苦悩)の方が大きいという。
だとすれば、戦争という「人殺し」をしなければならない立場の兵士が、敵を殺す罪悪感から逃れるために、「命を捨てる苦悩」を選んでも不思議ではないだろう。
 自爆テロ犯の本当の心情は、「愛する家族、国土、伝統、文化を守るために、『人殺し』をしなければならない。でも『人殺し』は罪悪であり、自分の命を捨てることが、その償いになるのでは・・・。少なくとも敵が苦しむ姿を見なくてもすむ」というようなものであったかどうか、私にはわからない。
 人類の歴史において、「戦争」(殺人)は連綿と繰り返されてきたがきたが、「真の勝利者」などあり得ない。戦勝国の「生還した兵士」がもらう勲章(名誉)は、「人殺し」の罪悪感を消し去るための免罪符だが、彼らは「戦死した兵士」より以上の「苦悩」を負って生き続けなければならないのではないか、と私は思う。
 (2005.8.20)